Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

■ コラム:「小説のような日本映画」「大人のアニメ」を多くの人が見たがらない理由。

■ ある、物語、ストーリーがあるとする。これを表現するには、いろいろな方法がある。実写、アニメ、小説、人形劇、絵画、絵本、演劇、映画、ドラマ、歌舞伎、能楽・・・・。
 
■ じゃあどういう形で表現しても、そのストーリーは一緒かというと、ぜんぜん違うのだ。
 
■ 何が違うのか?そのひとつに、観客が「期待するストーリー」が媒体によって変わってくる、ということだ。単純な話、「客層」が変わる。
 
■ そんなこと、っていう表現者のひともいるかもしれない。どんなかたちだろうが、僕が伝えたいことは一つだし、それが代わることはない、って。
 
■ でも観客は、そんな表現者が「伝えたいこと」をみにくるわけではない。
 
■ 実写をみに来るのであれば、多くの人はいままでに見てきたハリウッド的映画風の「オチ」を期待し、時間方言を期待し、いらいらしないことを期待する。アニメをみにくるのであれば子供と一緒に楽しめるものを期待してくる。
 
■ だから「大人のアニメ」や「実写で小説風をやる」というのは、どうしようもなくマスベースではうけない。
 
■ ラーメン屋にいったらうどんがでてきたり、キャバクラにいったらホストクラブだったりしたらたまらない。これが僕の表現したいところですなんていったって、客は怒ってすぐかえる。
 
■ 映画、小説、マンガ。それらは事前に内容をチェックしてその対価をはらうことはできない。ここが普通の商品とちがうところだ。今までの商品の記憶をエンターテイメントでは大事にする。だからあまり冒険はできない。
 
■ もちろん、「芸術」というのは、そういう「型」をなくすことだとおもう。これが「アニメ」とかこれが「実写」とか、そういう型をなくすことで、面白いものを作る。それもありだ。
 
■ ただ、それは観客が「芸術」志向の場合のみ許される。そういう型を破った作品を好む。そういう人たちが見る作品になら、喜ばれる。でもそういう人はかず少ない。そして、だいたい表現者の人たちも、このカテゴリーに分類されるから、こういうひとたちがいっぱいだろう、と勘違いしやすい。誰もが自分の感覚が多数者だとおもうから。 
 
■ しかし、現実には、多くの人は、型どおり生きることを望んでいる。わざわざ、新しい開拓者になんてなろうとはおもわない。明日のビジネスがきになるし、つらいことがあったら、なぐさめてほしいし。みんなそういう映画を期待していく。
 
■ だから「アート」作品は観客には「オナニー作品」といわれ、表現者は「観客は馬鹿だからわからない」といってのける、というふうになる。
 
■ 結局、需要と供給のすれ違いだ。そういう「開拓者」むけの映画は「開拓者」をみたいやつらが集まる、「アートアニメーション」の世界で見せればいいし、美術館でみせたほうが「ベター」。
 
■ まぁ、もうひとつ方法があるとすれば、「開拓者」としての表現者ががんばって、新しいタイプの型破りの作品を「型」として観客に認めさせる、ということだ。すべての「型」はそういうふうにうまれてきた。小説だって「新奇なもの」というのが元の訳語だし、だいたいの表現方法は、最初は認められなかった。
 
■ 認めさせるには途方もない努力が必要だろうけれど。
 
■ 押井守作品「功殻機動隊」みたいな「大人のアニメ」、岩井作品「リリイシュシュのすべて」のような「小説のような日本映画」。ヒットしているとはいえ、特定のマニア層にしか受けていない作品たち。
 
■ これらは多くの観客にひとつのジャンルだと認めさせる日がくるのか?彼らの生活にかかせないもののひとつとして、認められるのか?「国民映画」としてのヒットがない現状をみると、今のところ試みは失敗の連続のようだ。