Leanな生活について考えるブログ

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「働きたくない」気持ちを解決するための3つの宗教的発想方法

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何のために働くのか?

今日から仕事始めっていう人も多いんじゃないでしょうか。

努力なんてしたくないし、とても面倒くさい。仕事もできればしないにこしたことはないし、だらだらしていたい。趣味?そんなのもってない。たぶんそれが人間として、とても正しい。

ただ、それは生きていけるならという条件つきのはなしであって、食う物住む所に困るというのなら、しょうがない、金をかせがなければならない。仕事をしなくてはいけない。

生きていくために、働く。ぼーっと生きることが幸せ。これが基本で、何かいろいろ悩みをもちはじめたらここに立ち戻るようにしている。

人生はそもそも、不平等であるらしい。生まれつき、持ってる人持たざる人、両方いる。才能、金、土地、人脈。これは天賦のものであるのが基本。持たない人がずるいといっても、なにもかわらない。

もともと持っている人は、働かなくていい。働くのが美徳だとかなんとかは考えなくていい。私はもともと持っていない。だから働く。金を稼ぐ。

金を稼ぐってのはどういうことかっていうと、付加価値を作り出しそれを換金するっていうことだ。これがとてつもなく面倒くさい。付加価値ってのは、自分にとってということではなく他人にとってである。他人のことを考えなければいけない。

基本的にコントロールができない、自分以外の人間のことを考えることはとてもとても大変なことです。ここの基本をみなわすれがちですが、そうなのです。働くのはそのなにかを操作することなのですから、究極的に人生の悩みはここにつきるといっても過言ではないのです。古代は自給自足で、人間以外のものをコントロールすることが大変だった。今は社会を構成するほかの人間と交流することが大変です。でもそうしなければいきていけない。

ここで嘘が必要になる。他人のためになにかをするということは、自分にとってとても楽しいこと、いいことなのだ、というような思い込みが重要になる。

働くことは楽しいことなのだという嘘、そしてその伝統的解決方法とは?

もし、この嘘をつかなければ、働くことが苦痛でしょうがなくなる。まだ働くことが単純な行動だったころはよかった。いまは、どんな普通の人間でもある程度高度な教育が必要な難しいことをやらなければお金がもらえないわけです。

こういった悩み、苦しみをいろんな宗教は解決しようとしているように思います。ならばその宗教にヒントを得たいと思いますので探ってみましょう。

仏教(小乗仏教)の方法

ただなんとなく生きることが正しくて、それ以外のことをするのは正しい道に反するといって、そもそも働かなければいいんだよ!といったのは仏教(小乗仏教)。彼らは、俗世を捨て、徹底的に自分のために考えること、悟りにむかうことをやった。じゃあどうやっていきるんだ、どうやっていきられたんだっていうところに、働きたくない人の参考すべき生き方があるきがしますね。

結論から言うと、彼らは施しをうけた。他人が自分のためになにかをしたくなるようにした。これは、難易度たかいですね。芸能人とかカリスマの生き方に近い。

ただ生きている、それを勝手に周囲が付加価値であると認定して、自分以外の人が勝手にお金をだしてくれる。でもこれはある種の解決方法です。

一歩間違えればニートの生き方ですが、これを道徳的に正しくないとするのは、一面的な見方でしょう。これが基本のひとつであることは、間違いない。ただ、それを達成するためにはとても困難があるというだけです。

少しでも、こういう行動が施しをもっともらえるようになるんじゃないだろうか、なんて考えることは邪道になります。

それは、ただ生きているのではなく、働いていることになってしまうからです。それをしてしまうと結局悩みがうまれてくる。他人の目がきになる。苦しみの連鎖に逆戻りなわけです。ただ自分のためだけに生きるというのはとてもむずかしい。だから修行が必要なのです。

現代でいうと、先ほどいったように芸能人であったり、また自分の好きなことを仕事にしているクリエイターや作家、芸術家なんかも近いんじゃないでしょうか。ノマド的ないきかたもこれに近いでしょう。働いていても働いている気がしない、自分のためにやっていることが自然に金になるってのを理想とすべし、ということです。

キリスト教プロテスタント)、もしくは儒教の方法

今度はキリスト教です。キリスト教プロテスタント)はどう考えるか。良い人間だったら、働け、さもなくば死んでからひどいめにあうぞ、といって脅すのです。死んでからひどいめにあうのは怖いなぁってことで、みんな一心不乱に働きます。他人のためにではなく、自分のために働くようになるのです。

他人のためにとって良いことをしたいと思うのはとてもむずかしいことなのだけど、それをやりたいと自然に思ってしまう人は、正しい人間で神に選ばれている人間の証拠。死んだ後、神の国に入れる人間であると考えます。逆をいうと、働きたくない、人のために動きたくないと思うような人間は死んでから大変なことになるという話です。怖いです。神様怖い。

こう考えて働き続けた結果、西欧諸国は資本がたまり、資本主義がうまれ、また徹底した効率化の結果、技術革新もうまれたといわれています。もともとヨーロッパは資源を「持たない」国でしたが、そんな真面目さで世界を席巻できたっつーわけです。

現代の西欧でも、ベースはこういう真面目さで、マッチョに働くことが、ビジネスが成功することが、とてもよいことだという価値観になっていると思います。あとは徹底した宗教的な、効率化への欲望。これは、ひとのためとかどうとかじゃなくて、そういうことが大好きとなっているので、自然に苦痛に感じずにやれているようです。

現代日本でいうと、なんというか真面目なサラリーマン、というかんじでしょうか。別にキリスト教社会ではないので、神様は怖くないのですが、どっちかっつーと儒教的、武士道精神とミックスされて、キリスト教的禁欲さが輸入された。ただ、働くことを禁欲的に行うことがよいことだと考える。(効率化とかはあんまり考えないと思いますが。)

他人のためといえば他人のためですが、そこを超えた崇高なコンセプトにむけて仕事をすることで、自分ごととして幸福感をえる。ちょっと前の日本だとこんな考え方が一般的だったのかもしれません。これはこれで、働くことが楽になる考え方です。

そうはいっても、現代社会やっぱり仕事はつらい。

2つの宗教の、働きたくないっていうのにたいしてどう発想の転換をうながしているかをみてきましたが、共通していることがひとつあります。

お金を稼ぐということは間違いなく、自分以外の人間が関係してくるとても面倒なことですが、これを自分ごとにしてしまっているってことです。仏教は素直に「自分ごとだけをしなさい」といって、自分ごとだけをさせる、プロテスタントは「働かないと自分が滅茶苦茶困ることになる」と脅す、または「働くことはとてもすばらしいきもちいこと」だと、自分事にさせてしまっている。

プロテスタントは実は初級編です。誰にでも、やろうとおもったらできる。神怖いとおもったり、禁欲楽しいと、どれぐらい思えるかが重要ですが。神を持ち出さなくても、儒教的に人のためにやるってのは正しいことだと、思い込みただ勤勉に働くことをきもちいいと脳内で変換してやるように自分をしつけることができればいいでしょう。

ただ、そう思えなくなってきているのが現代社会です。そうなると、そういう人は小乗仏教的上級編にチャレンジしてもいいかもしれません。そもそも働かない。もしくは自分のすきなことをただなんとなくしていて、いつのまにか他人が施してくれているらしいという風に思い込む。これは自分の好きなことを仕事にしているひとは、考えやすい発想法ですね。ただ、これは最初の話でいうと、ある程度「持っている」人ができることだと思います。まず、人から施しを得られるような、人がなにかをしてあげたくなるような才能、カリスマ性。もしくは、最悪施しをもらえなくても生きていくことが出来るリスクヘッジとしての資産。もしくは、才能も財産もなくても、とりあえずそういうことをがんばっているひとがいたら応援してあげる仕組みがそなわった社会環境、そこにたまたま生きている幸運。これらのいずれかを持っている人は、ただただ自分のやりたいことを追求し、他人と関わらずに生きていくことが幸せでしょう。

持たない人が上級編をやるとどうなるか?最悪、死にます。仏教の場合は、死んでも来世という想定があるのでOKとしているわけですが、そこを信じられない場合ちょっときついですね。

金を稼いで生きることの面倒さを、ごまかすための方便を宗教的回答としてみてきましたが、結構どちらもしんどいです。

ありのままをうけいれるという、最近流行の新しい考え方。

ありのままの事実をうけいれるってのはどうでしょうか。仕事はしないでいいにこしたことはない。でもしないと死ぬからいやいややろう。死なない程度に仕事しよう。しなくていい仕事はしないようにしよう。稼いだ金で適当に楽しく生きよう。

こういう考え方。これ最近の日本ではやってきていると思います。ブラック企業批判もこの流れのひとつだと思います。ただこのやり方だと、気合がぬけすぎていて気が狂ったような効率化、合理化であったり、世界をかえるような突き抜けた技術革新であったり創造をおこすのは難しいでしょう。自分ごととして自分の使命として、嬉々として仕事をこなさなければ、資本主義世界では成功できないのです。上のようなまったりした、いやいや仕事をするような考えは、資本主義を降りた考え方です。でも大部分の人にとってはそれでも生きられるのも事実です。

あなたは、「持っている」人かどうか。それで、仕事の考え方はかえればいい。

たぶん持っている度合いで、どの考えをもつかが決まると思います。まったく「持っていない」人は、プロテスタント的あるいは、儒教的真面目さで貪欲に働く。まぁまぁ「持っている」人は、いやいや適度に生産性低めに働きつつ、余暇で自分の好きなことを適度におこなう。ある程度財産を、もしくは才能、もしくはすべてをなげだす勇気を「持っている」人は、小乗仏教的突き抜け方で、人のためには働かず、自分のしたいことを徹底的に行い、その結果世界に革新をおこしたりして、布施をもらって生きる。

日本人は、すべてのひとがまったく持っていない時代は終わり、禁欲的に働くことはしないでよくなった。かといって、余裕綽々というほどでもないで、まぁまぁ持っている人として、適度にまったり生きることを選択したいっていう人がふえているんじゃないかなぁとおもいます。

ただ、本当に「持っている」のか。自分の人生をとおして安寧として生活が送れる状況なのか、日本はこれからどうなるのか。そんなことを考えてみると、他の宗教的いきかたも完全に捨て去れず、あたまのどっかにいれておかなければいけないのかもしれません。