Leanな生活について考えるブログ

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【メモ】 70年代的アツイ自意識の復活

90年代前半ブルセラギャルたちを表現するのにつかった「ココロが壊れてる」といった表現は、「肉体の否定」をした少女たちにたいする批評側の言葉だった。でも本当は、そうじゃなくて「ココロが壊れてる」のじゃなくて新しい今までにないココロのあり方をめざしただけだった。そうのに咲く花のような自由気ままな「動物」のような。彼女たちが目指したのは「(今までのありかたの)肉体の否定」であって「(あらたな)肉体の規定」をしていたのだ。
 
たぶん「肉体の否定」をしたかったのは、批評側のほうのきもちだったということで。つまり当時の30代男たち、オウム世代の男たち、ってことでしょうか。
 
で、彼女たちのほうの話にもどれば、彼女たちは「新しい肉体の規定」ができたのかっていわれると、実はできなかったんじゃないでしょうか。なんか最近のはやりをみると「昭和歌謡」とかブルーハーツの後継者としての「日本語パンク」とか、「透明なナショナリズム」とかわりと古典的な流行が多い。あと「しゃべり場」を筆頭とする、「あつい」少年たち。70年代をリロードしている自意識がやたらに多い。アイデン&ティティのようなものがあるていどうける下地とか。くどかんてき80年代が当時のノスタルジーをかんじてる大人だけじゃなくて、今の20代にもうけてしまうところとか。
 
自意識が希薄化すればするほど、不安になるのが当然で、新しい自意識の獲得に、既存のわかりやすい記号を使ってしまうのが、日本の限界なんでしょうか。というか新しい自意識のありかたを提示できない大人の問題でもあるきがします。
 
まぁ本当の当時のギャルたちがどうなったかってのはよくわからないんですけど。予想するに、自意識が希薄化すればするほど、仲間とのつながりがより近づいていて、自分がなくても耐え切れるような環境にいるんでしょうか。当時の少女たちにあったような、新しい感覚ってのはもうなくて、それが当然のように、90年代前半の希薄化した自意識を消費しているんでしょうか。しりません。