Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

■ コラム:気持ちいい暴力について。

■ 普段僕たちは、何かを他人に伝えるとき、言葉を使う。言葉があるから、まったく違う文化の人にも何かをあるていど伝えることができる。
 
■ だけれどそれはすごくめんどくさいときもある。まどろっこしい。犬がさしているものが本当に共通のイメージかどうかなんてのは、わからない。中国語で犬は「鳥」をさすかもしれない。
 
■ 言葉を使わないで相手にモノを伝えようとする。これは困難なことだ。だけれども不可能ではない。
 
■ 私たちはどんな異文化の人とでも、「人間」であるという共通の部分がある。「人間」の特徴をうまく使えば、言葉を使わずにコミュニケートできる。
 
■ さて、ありとあらゆる異なる文化の人と、日本人とで共通している部分は何か。
 
■ それは「生」と「性」。
 
■ 人間は誰しも死にたくない。そういう意味で「暴力」は必ず伝わるメッセージ。
 
■ 暴力とは間違いなくコミュニケーションのひとつだ。言葉を解さないときに一方的に自分の伝えたいメッセージを、間違いなく伝える手段だ。ひょっとしたら言葉よりも正確に、強烈に。脳みその統覚機能を解さず、ほぼ直接的にメッセージを伝える。これは気持ちがいい暴力。
 
■ コミュニケーションでない暴力もある。まるでゴミ箱にゴミをすてるように。なにもかんがえずに、相手が人としての機能をもっていないかのように、削除する。これは気持ちが悪い暴力。
 
■ 原点をたどるなら、「戦争」も「暴力」の延長上のコミュニケーションだろう。「言葉」を通じない、異文化どおしのコミュニケーション。てっとりばやいコミュニケーション。或る意味効率のいいコミュニケーション。
 
■ そして性愛も、言葉を使わないコミュニケーションのひとつだろう。
 
■ 「言葉」を使わないコミュニケーションは野蛮であると切り捨てられる。そのなかでも性をぬいた愛にかんしては認められている。言葉をつかわずに通じ合えるこころとこころ。
 
■ だが、愛がこの社会を支えるのに必要と同じ程度、暴力もまた必要とされている。それに目を背けても、何もすすまない。今の社会は、言葉だけでできていない。近代化は徹底されていない。
 
■ 特に昔の日本のような共通の感覚ができあがっていた共同体では、「暴力」が間違いなくコミュニケーションとしてなりたっていた。もちろん今はたとえ日本のなかでも「泡」化社会となり、それぞれの「泡」どおしでは共通の言葉すらもたないという状況で。感覚もまったくちがう。そんな状況で「暴力」をつかっても、相手に伝わることは、コミュニケーションは不成立だ。犬が「鳥」をさしかねない。体罰は今の時代はアウトだ。
 
■ 暴力をつかうことが「いい」とは言わない。だが全ての暴力を、目の上のたんこぶのように、いらないものとして排除する姿勢。分析し、どういう場合がよくないのかと考えず思考停止し、そういった現状に目をつむる「ヒューマニズム」は今の社会を盲目的に滅びさせかねない。なぜならかれらは、「暴力」を「悪」と置き換えた瞬間、それらを「人でない」ものとして、認識し、コミュニケーションでない「気持ち悪い」暴力で、それらをつかうものを排除する。
 
■ ま、めんどくさいからね。
 
■ で、戦争は悪なの?