Leanな生活について考えるブログ

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影と光の化け物。セキュリティ技術と犯罪する自由。

影とは、「黒く塗られた」ということではない。何も無いということだ。何も無い、というよりは、そこには「交換不可能性」のメタファーが存在している。
 
人はものとものを交換する素朴な物々交換の時代から、交換の利便性を求めてきた。その結果貨幣がうまれた。
 
ものとものとの交換だけではない。情報と情報の交換も要求された。そこで、手旗信号などがうまれた。それは、情報→手の動き→旗の動き→視覚→情報 という、情報の基本的な処理がおこなわれており、それはいまITネットワークが普及した今でも原理的には変わっていない。情報は電気信号のパターンの組み合わせに変換され、そのパターンは最終的に、ディスプレイのRGB情報に置き換えられたり、空気振動のパターンにおきかえられたりする。
 
全ては、途中経由している素朴な交換システムのつらなりで、情報伝達はなされる。
 
人間はこの情報伝達操作を、ありとあらゆる分野におこなってきた。その結果、全ての情報、刺激は、ありとあらゆるものに置き換えられることが可能になった。
 
たとえば、電話がなかったころには、今、自分が発した声を、100キロメートル離れた場所に伝えることは、身体的不可能だった。しかし今は、空気振動→電気信号の順番で交換されつづけることにより、技術的交換可能となった。それが電話だ。

いま何でもインタラクティブな時代となっている。インタラクティブとは相互伝達性のことをさす。
 
そうやって、身体的交換不可能なものを、技術的交換可能なものに置き換える。それが素朴によしとされてきた。
 
映画がカラー化されたことで、影の芸術がなくなってきたといわれる。映画においての影とは、光がフィルムに感光しなかったということを指す。そこには「何も無い」のだ。そこには身体的交換不可能性が存在する。
 
影がなくなることは確かによいことである。CGにおいては、影は存在しない。影は、計算結果として、黒く塗るというアウトプットをなされたものだ。コンビニにいけば、影はなくなるように、照明が必要以上にたかれ、影などどこにも存在しない。そうやって安心感を作る。
 
影があるということは、知ることが出来ないとうことだ。情報の交換が不可能であるということだ。それはある意味「匿名性の自由」を奪うものである。
 
インターネットでは、2ちゃんねるなどの掲示板が匿名掲示板などとよくいわれるが、インターネットにつないでいる以上、匿名であることはほぼ不可能である。プロバイダに通せば、どこからつないでるかという情報は丸残りである。情報を交換したという履歴はすべてのこる。
 
何故か。それは、身体的な不自由から開放されて、技術的自由をてにいれたことにより、その途中の交換可能にしている「技術者」という第3者が介入してしまう余地をあたえてしまっているからだ。
 
素朴な身体的交換自由だけで生活がまかなわれていたころは、全てが自分の理解可能な交換原則だけで動いていたため、自分で情報の行き来全てが把握できた。結果便所に落書きをのこそうが、それがペンでインクを壁に擦り付けるという物理的行為である限り、匿名性は存在しえた。
 
だが、無理やり身体的不自由を、技術的に自由(なんでも情報交換できる)な状態に移行してしまったために、情報交換の可能、不可能性が、第3者によって選択できるようになったのだ。
 
これは犯罪を防ぐことに役に立つ。影が無くなればたしかに、セキュリティはあがる。
 
だが、どこかになにか怖さを感じないだろうか。影がなくなるということに。ますますこの世の中からは影がなくなっている。
 
歌舞伎町には、監視カメラが住民の要望でつけられている。MIXIなどのSNSでは、自らが、誰と友達であるかを、個人情報を公開している。そうすることで、さまざまな利点がある。セキュリティはあがるし、イベントもやりやすい。
 
もちろん、意図的に影をつくることはある。影が皆必要だと感じているのだろう。意図的に光を作らずにかげをつくり、安心感を演出する。
 
たとえば。個人情報は必ず死守されるという約束。サービス側は、特定の人物を探すのに使わないという規約。これはルールによって、影を作り出しているが、会社側がやろうとおもったら、いくらでも個人情報は流出されるし、個人を特定するのにも使おうと思えばつかえる。
 
もともと光が存在せず、光の扱い方に困っている日本なんかは、今は馬鹿の一つ覚え的に光に支配されている。企業倫理なんてあったものだろうか。
 
テロ防止という名目で、誰かが情報をみることができる。これも影がなくなった状態の一つであろう。

また、2ちゃんねるも、意図して演出された「影」といえるだろう。
 
別に、だからといって「権力横暴!プライバシーの保護を!」などというつもりはないのだ。陰謀史観にはまっているわけでもないので、実際問題、権力は、個人のメールをテロ防止目的以外で使用することはないと思う。
 
だけれども。単純に、影がなくなることへの恐怖がある。いつか、全ての情報が交換可能になる時代が来る。私は今、理工学部の情報工学科にいるわけだが、色々な恐ろしい、いや、すばらしいシステムが開発されているのを目の当たりにしている。
 
そのビルにいるだけで、誰がどこにいるかすぐに「わかる」。歩いているだけで、その人の情報から、システムが自動的に判断し、今日の予定を伝える。実際にその場所にいかなくとも、他の場所で、まるで目の前にその人がいるかのように会議をすることができる。
 
これらはすべてもはや技術的には実験され、可能となっているものばかりである。こういう技術が発展すれば、便利であることは間違いない。もちろん「プライバシーの侵害だ!」という人がでることはわかっているから、彼らも「誰も、本人以外に自分の情報をしることはできないシステムになっている」と説明する。
 
たしかにそれは間違いないと思う。中央のシステムが自動的に機能するならば、セキュリティは死守されるだろう。プライバシーも死守される。
 
だが、そういう問題ではないのだ。そこに、なんらかの、第3者が介入できる余地があるというだけで、何故か息苦しくならないだろうか。
 
その息苦しさをどう表現したらいいかどうかわからない。さながら、光が360度あらゆる方向から当てられた部屋に24時間閉じ込められているような圧迫感。
 
ならば結局「影」とはなにか。それはユングの解釈によれば「無意識」となるだろう。自己実現に向ける最中に最も最初にであう元型。いや、そんな回りくどい解釈を除いたとしても、影という場所は、人が意識することのできない場所。根源的に交換を拒否する場所。根源的に偶然性が存在する場所。何がおきるか分からない場所。秩序だったものにぽっと突然あらわれる、イマージェンシー=創発。トリックスター。理系文系様々な言葉で言い表されるが、生命にとって不可欠な何かなのである。今それらを猛烈な勢いでなくそうとしているもの。
 
それが現代の「影」に存在している、「光の化け物」である。