Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

そういや昔のブログをよんでて思ったこと

いやーなんちゅーことをかいていたんだろうとおもうよ。ためしに昔のブログから参照してみるよ。

■ 楽園がかつて存在していたという。「エデン」という場所に。僕たちは追い出されてしまったという。僕たちはもう戻れないのだろうか。楽園に。
 
■ ところで、形とは存在しない。機能の集合を形と呼んでいる。
 
■ 僕たちが目にする、四角とか三角という「形」。それは光の反射が目に入り視覚刺激に変換された「こと」の集合を「形」という「もの」と呼んでいる。
 
■ 目の前にあるチョコレートクッキーが「丸」であるということは、目に入ったある一転の刺激がチョコレートの色である「こと」が円状に集合している「こと」を「「丸」という「かたち」という「もの」で呼んでいる。
 
■ 走るとは存在しない。彼が走る、私が走る、誰かが走る。だれかしらが、歩く速度を速め、かかとをけりあげて速度をあげて移動する視覚刺激と聴覚刺激の融合の「こと」の集合を「走る」という「もの(言葉)」でよんでいる。
 
■ 僕たちはさまざまな、目の前で起こる人間が捉えられる範囲の(視覚・聴覚・触覚・・・)「刺激」という「こと」の集合を「名前」という「もの」で置き換えて、生きている。このことを抽象化という。心理学的には象徴化という。
 
■ さて、人が象徴化をもししなければどうなるか。それは赤子が見る世界である。何も視ていない。だけれど、そこは守られている限り安住の地である。生命力に満ち溢れた、豊かな世界。
 
■ そう、この世界こそが「楽園」といえるのではないか。「言葉」を使わずとも、自分と他者の境界はあいまいで、全ては満ち足りていた。母という神の守りを受けている限り。
 
■ だが、人間はそんな世界だけでは生きられない。恐怖はすぐに生まれる。母親が目の前から(視界)から消える。いないいないばー、である。たとえばこういう「目の前から」いなくなるだけで、赤子は象徴化できていないため、恐れる。何が危険で何が安全かもわからない。
 
■ そんな中で、「父性」がその環境から引き離すために「言葉」を使うことを覚えさせる。全ての刺激を、くくり、区切り、モノとすることで、安定感を与える。
 
■ そして自分という「こと」を周りと区切り、「わたし」という「言葉」をうみだすことができた瞬間、赤子に自我がうまれる。
 
■ だが、その瞬間、エデンからは遠のく。犬を「犬」と呼んだ瞬間、それは「犬」であるしかなくなり、それ以外の可能性をなくす。あ、あれは「犬」だとすぐに判断する。生命力は遠のく。「世界」とのつながりはなくなり、「言葉」を通さなければ、意志を伝えることができない「社会」へと入る。
 
■ 私たちは楽園を夢見る。言葉もなく、思ったことがそのまま伝わるエデン。それは幼少期の、こういった、「世界」から切り離される経験を思い出し、あの楽しかったころにもどりたいという幻想をいだかせるのではないか。ユートピア幻想というのは全てこれらが原因ではないだろうか。
 
■ たしかに言葉は悪魔の業ともいえる。自己愛を隠し、他人を陥れる。だが私たちが楽園にもはや戻ることが許されないならば、悪魔だろうが利用していきていかなければならない。「言葉」をつかい、生きるための社会を作りあげていかなければならない。言葉の違う人種とは、翻訳をし、共通の概念の言葉をみつけだし、共存していかなければならない。感覚を共有できないものとの共存には、「言葉」が必要なのだ。
 
■ そして言葉を駆使し、全ての人類と共通の感覚をさす言葉を作り出せたなら。そのときまた、何を言っても意思が通じ合う、何を言わなくても意思が通じ合う、楽園が誕生する。そんな日がはるか未来やってくるかもしれない。

この文章とここ数日の日記の比較をしてみるといい。死にたくなる。どっちの日記も死にたくなる。