Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

キリストが合理的じゃないから近代文明ができたのだから、社長の発言は合理的じゃないほうが良いのだろう

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

なぜキリスト教文明が近代化に成功したか。それはキリスト教を信じる人々が、合理的に考えたり行動することが思う存分できたからではないかと思います。ではなぜ、合理的に考えたり行動したりできたのか。それは聖書とかキリスト教の考え方が十分合理的ではないからだと思います。これがイスラム教、あるいは仏教みたいに、言っていること自体が非常に合理的にできていたら、その経典に書かれているように考えたり行動したりすることが、すなわち合理的であることになる。しかしキリスト教ではそうではなかったから、合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験することが出来た。

もともとキリスト教って、ユダヤ教みたいな厳格な法律をもったものに反発してでてきたので、世間の厳格なイメージと違い、割とゆるい部分が多いようで。

これって会社とかでもそうなのかも。リーダーがやたら合理的すぎる人だと、それ以降発展しないわけで、ある程度方針が正しくあと人望が厚ければ、言っていることは矛盾していても、部下が自由に解釈できる余地があるほうがうまくいくかもね。

親を差別するところで成り立つ「若者文化」

六本木アートナイトとか、まぁライブとかもそうだけど、やっぱまぁ子供いると気軽にいけないのは、しょうがないけど、まーなんか色々考える。

結局そういうー踊ってアートなりミュージックなりを楽しみ尽くす「若者文化」はやっぱり「親」を排除したところに存在していて、というか自分が排除して楽しんできていて、「親」っぽい世俗性を差別している文化なんだなぁと思う。いや、ところどころ取り込もうという努力は見られるんだけど、それは免罪符程度というか…(ex avex主催のママフェスとか、親子でたのしめるフェスとか)。
「若者文化」こそが世界を変えるっていう雰囲気、というのは「親」になることを拒否しないと成立しないなーと。そして「若者文化」バンザイだった自分は、覚悟することなく、なんとなく「親」になってしまって、そういう楽しいことにとても羨ましさを感じるし、あと、当時自分がもっと「親」になることをリアルに想像して、おじさんになる準備をするべきだったなーとか思ったりする今日このごろです。

日本の葬式仏教はとてもバランスのとれた良い中二病である

日本での仏教つーのは、葬式仏教なんていわれて、まぁ普段あんまり気にしない程度のものだったりしている。たまに法事で、説法きいてへーとおもったり。もうすこし踏み込むと、カジュアルにテレビとか本とかで般若心経とかの解説本よんだりして、へーっとおもったりする。
でもまぁ、日本人の識者にいわせると、そのレベルで宗教を捉えているのは良くない、もっと真面目にかんがえろ!っていって葬式仏教なんてものを否定する人もいる。まぁわからんでもない。
そういうカジュアルによく唱えられる「説法」のひとつに、このよのすべては幻的なものだから、まぁあんまりくよくよすんな、とかそういうのがある。それを完全に理解したら、悟りがひらけて、悩みとか煩悩から解き放たれるよ、みたいな筋書きがある。いわゆる色即是空ってやつです。
そこの境地までいかなくても、色即是空とか聞くと、あーなんかくよくよしててもしかたねーなーって思えるところは凡人でも、なんとなく思えるし、ちょっとすっきりする。
仏教の話でぴんとこない人には、宇宙規模の巨大な話をきくと、人間ってちっぽけだな、くよくよしててもつまらんな、みたいな感覚に近いというとわかってもらえるだろうか。
で、この程度で話が終わる分にはとてもいい話だとおもう。人間関係に疲れている社会人にはたまには、こういう境地にふれることが必要。カジュアル座禅やカジュアル写経は超重要で、宇宙の話とかを勉強するのもとてもいいことなわけですね。で、次の日からはまたそんな小難しい話はわすれて、世間の波にもまれていく。
これを、まぁ矛盾した生き方と否定するのは簡単なんですが、とても安全な考え方だとおもう。この論理の延長上には、若干病気でカルトな世界がまっていて、家族とか友達とかの共同体を全否定して、個人と巨大な「世界」が直接つながりうるような感覚になり、万能感をえられるようになる。ここまでいくと病気なわけです、いわゆる中二病。生きる上で世の中馬鹿にしすぎて、社会生活に支障をきたすから。あとカルト宗教になってしまう。
あと、この境地までいくと、葬式仏教的なものも全否定したくなる。カジュアルに一時しのぎで悩みを解決するな、そもそも世俗への思いをすべて捨て出家しろ!中途半端なことやってんじゃねえ!という感じ。
っつーわけで、やばい。
そこまで行ってしまった人への処方箋としては、そういう家族とか共同体を否定している君がなんで満足感を得られるのか、その理由をはなしてあげればよい。実は、君はただ、今所属している人間関係とは違う、別のつながりを作りたいだけだ、という事実。この世はむなしい、無常であるといっている人たちが、たくさんいて、そういう「真実」をわかっている人たちと傷をなめあいしたいだけなんだ、という話。
中二病と仏教の違いは、そういう部分を自覚しているかしていないかなんだろう、と思う。そういう世の中を全否定してしまいたくなる心境は教義のなかで徹底否定されている。この部分を徹底しているのは上座部(小乗)仏教。
じゃあ完全に、そういう中二病的なひとたちの集まりと仏教が関係ないか、ってうとそうでもなくて、なかばたぶん意図的に中二病側にふみだしているのが大乗仏教。そもそも人を救いたい、ってのは要は、世俗とは別に「わかっている」仲間をつくりたい、っていう欲求が強まっている状態だと思う。(だからこそ上座部では人を救いたいというのは否定している)。
大乗仏教のうち、葬式仏教とよばれるような世間に浸透した仏教は、そういう傷の舐めあいにならないように、理屈で語るのではない進化の仕方をしたのだとおもう。念仏をとなえればいいとか、坐禅をすればいいとか、身体的な感覚でこの世は空だということをなんとなく気づかせるレベルにとどめる。意識化させない。非日常を少し感じさせ、世の中と少し一体化させるレベルにとどめている。がちで修行を普通の人たちにさせすぎない。この延長上には、葬式仏教がまっていて、法事のときだけ説法をきいて非日常を得るぐらいになる。
中二病でカルトになる危険性を避けて、ただ、世の中の人間関係の疲れを癒す程度に人々に救いをあたえるには葬式仏教とかカジュアル宗教体験が一番いい、ていう結論になるんじゃないかなぁと思う。

NHKスペシャル 父と子 市川猿翁・香川照之 見ました。

昨日歌舞伎をみたものだから、ひかりテレビで録画しておいたのをみたんだけれど、いやぁこれは泣いた泣いた。親が死に苦境にたたされ追い詰められ、それでも芸に生きるため家族を捨て「親と思うな」と子に言い捨て、成功したものの、今大病を経て麻痺を体に残し舞台に立てなくなった末、苦悩をかかえる猿翁さんと、親から言われた言葉を傷とし歌舞伎をトラウマとし、それでも歌舞伎を諦めきれずありえない年齢で歌舞伎に挑戦し、改めて親と対峙する香川照之さんの血のドラマ。普段べったりとしたお涙頂戴なドキュメンタリは大嫌いだけど、人情なんて捨て去り芸に生きようとして、それでも人情を捨てきれないところに生まれた人情の話は真実味があって胸に迫ります。人間追い込まれたところで、本当のところがでますね。そして今回、猿翁さんは、「身を捨ててでも」香川さんを指導し成功させると言い切るわけです。親子が話すシーンは全部泣ける。猿翁さんが大病乗り越え舞台に出るというだけでも泣けるのに、いってはなんだけど設定が出来過ぎ。NHKオンデマンドとかにでたら見ることをオススメします…。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0106/

「UX」の目的は2つ、チームメンバーをだますこと、そして「悪い」サービスを作ること。

いわゆるUX、人間中心設計の主な効果は、いいサービスを作ること、とは限らないと思っている。むしろ悪いサービスを短期間で作り、失敗し、素早く反省し、いいものを創り上げていく動的なプロセスにある。そしてそれを達成するために、メンバーをある意味「だましきる」ことが大事になる。皆が科学的態度で疑い続けると短期間で作ることが不可能になるからだ。

サービス開発の初期で、ビジョンやコンセプトを固める段階、まぁまだお客様がそれに対して本当にいい反応してくれるかなんて確たる証拠はないわけで、異論各論がチームメンバーからでる。その状態のままプロジェクトをすすめると、開発とマーケティング、営業みんなばらばらのこといって、できあがるサービスはコンセプトってなんですかっていうちぐはぐなものができる。まぁ、失敗はしてもかまわないとおもうんだけど、市場にだしたときに、結局何が失敗なのか測定が難しいものになってしまい、なんとなく何が悪かったのかわからないうちに、次のPDCAサイクルにつなげられずに終わる。

なので、チーム一丸になって同じコンセプトを信じきるってのが大事。で、これを達成する方法は、チームメンバー全員が信じることができる根拠があること。とてもとても長い時間をかければ科学的に客観的根拠をつなげていくことも可能だけれどビジネスでは不可能。短期間で信じるにたる根拠をつくるにはどうするか。

でっちあげるしかない。はったりである。直感である。直感を同じ方向に向かせるには宗教にならうのが一番で、宗教を参考にすると、「神様」をもちだすしかない。具体的な方法は、2つしかない。ひとつは、全員が信じきる神様のようなカリスマに発言させること。で、もうひとつが神様である「お客様」をもちだすこと。

前者は、なかなかそこいらにころがっているものではなく汎用的な手段ではない、後者であれば、どの会社でもできることだ。つまり「人間中心設計」なりUXなりをうまく使うことだ。

勘違いしてはいけないのは、そういったユーザー調査は手段であり目的ではない。そして目的は直接的に良いサービスをつくることではない。一段階はさむ。つまり、「良いサービスをつくること」→「チームをまとめること」→「ユーザー調査をすること」なのだ。チームをまとめることは、ユーザー調査の副次的な効果ではない。むしろ中心的な狙いである。イイサービスになるかどうかは、ちゃんと調査をする、というより、たくさん小さい失敗を重ねて漸次的に良いサービスにしていくことだと思う。しょせんユーザー調査など定性的評価でしかない、科学的というにはおこがましい。科学的でないことは、良いサービスをつくるという事実には直結してはいけない。因果関係がない。因果関係ないところに因果関係をみることを迷信という。因果関係を認めるためには、多くのサンプルがひつようで、何度もリリースしなおし、市場に問いかけるしかない。

誤解をまねくといけないのでくりかえすが、ユーザー調査は良いサービスをつくることにつながる。ただ、いいたいのは、その途中であるいいチームをつくることを無視しては、因果は成立しない。人間中心設計を声高に叫び、チームを崩壊させては、いいサービスをつくるという結果につながらない。ただのカルト宗教だ、といっているだけだ。

チームをまとめよう。短期間でまとめよう。短期間で、全員で同じ方向をむこう。早くリリースしよう。間違っててもいい。極端に間違えば間違うほど修正が簡単だ。複雑な人間関係のチームがつくったサービスはちぐはぐでどうしようもない。船頭多くしてなんとやら。

まあ若干極端にいいすぎた感はあるけれども、UXの専門家といわれる人が、正しさを追い求めるあまり、チームビルディングをないがしろにしてしまうことが、あるような気がするので、自戒をこめて記録しておこう。

江戸時代はイノベーションのジレンマの時代だったのかも。

江戸時代の農本主義と、倹約文化は、安定した平和をもたらしたわけで、それはそれまでの戦国社会に対してはイノベーションな考え方だったわけですよ。特に戦国時代発展した商業中心な社会システムは、みんなつくろうとして、結局ふくれあがる人の欲望をおさえきれず自滅してしまったりしていて失敗したり、そのへんが徳川さんはびびってしまっていたのでしょう。だからこそ、そうじゃない質素な農業中心の社会を発明した。これは間違いなくイノベーションで、200年の平和をうみだしたことは成果です。

でも、農業中心のシステムが完成されてしまうと、そっからなかなか成長できなくなる。まだその時代完全にコントロールできないと考えられていた商業を重視する社会にうつるのはびびってしまって、農業だけでは成長がもたらせないとわかっていても、そういった社会システムを発明できなかった。まさにイノベーションのジレンマ

そんなこんなで、ベンチャーである薩長土肥が商業に関するイノベーションを達成してしまうわけです。

そう考えると江戸時代の政府にも少し同情してしまうな…。新しい冒険ができないのは、今の自分も似たようなもんだしね。

しがらみを最小化したいけど、孤独にはなりたくないと思って生きている

常日頃、人間関係のしがらみを最小限にする生き方を模索している。ノマドとかも大学生とか、一時期憧れではあったのだけれど、そこまで徹底したとき、反動で必要以上のしがらみがおそってくることがなんとなく予想できてしまって嫌になった。

たぶん、日本はしがらみが多そうな国なのだけれども、実はそれを心底は嫌っている民族なんだと最近思っている。これも昔は、日本はとても人間関係がどろどろしていて気持ち悪い国だなぁとおもっていたけれども、世界のほかの血縁関係の強い国とかをみていると、実はそうでもないし、あと、逆にさっぱりしすぎている国は、それはそれで別の問題が色々起きているなぁと思ったりするようになった。日本はほどよいバランスでどろどろしている国なのだと思う。

ただ、日本の歴史のなかで、もっともほどよかった時代はたぶん今ではなくて、歴史上どこかで最高潮だった時期があるんだろうなぁとおもって、最近日本史っつーか、日本の「しがらみ」史をしらべている。

江戸時代は、しがらみがわりと強い感じで、おかげで商業の発展が遅れたりしていて微妙にバランスが悪い時代。なんとなく、よさそうだなぁと思うのは中世ぐらいの商人たちだなぁとあたりをつけている。土地にしばられることもなく、武士たちとも微妙に距離をたもちつつ、自己責任で生きている。かといって孤独でもなく、仲間たちとはうまくやっているイメージ。ただ、相当能力高くないとすぐ死んでしまいそうな時代なので、もう少し能力低くてもなんとかなる感じなのがいいなぁ。

これを現代に持ってくると、実はフットワークの軽い大きな会社にいるのが近いんじゃないかなぁと思ったりする。中世の商人ぽいイメージそのままだと、小さいベンチャーみたいなところが近いんだけど、上にも書いたようになんかやっぱり失敗すると死ぬ感じがつらい。それならある程度のしがらみはひきうけつつも、そこそこ安定している成長して大きくなったベンチャーぐらいがちょうどいいなぁと。

つうわけで、今の会社にいたりする。

普通の人がノマドやるにはつらいし、たぶんそれなら出家したほうがいい

まぁ普通、孤独には耐えられないので、馬鹿をいいあうような、一緒にいろんなコトを楽しめるような人間関係がどうしても必要で、会社、あと学校は、それを比較的個人の努力や魅力なく、だれにでも提供してくれる便利な社会システムなわけですよね。それを完全に捨て去るのはつらいよね。いじめとか、あと意味のない会議とか、そういう問題は確実にあるんだけれども。必要悪というか。
あと、たぶんノマドになっても、人間関係を完全に捨て去りロボットのような存在にならない限り、同じような苦しみは会社をでてもどっかで襲ってくると思うんですよね。愛情だけの関係性ってありえないとおもうので。きゃっきゃふふふやっててもやっぱりねたみそねみはやってくる。もしそういうものがやってこなくても、薄い関係性による孤独に悩まされる。
ちなみにたぶんそいういうを人間関係を完全に捨て去りロボットのような存在になるために、小乗仏教があると思うので、ノマドとかいているかたは完全に出家することをおすすめします。

会社から中途半端な人間関係のしがらみを取り除きイノベーションを起こしたいなら、血縁による「イエ」制度を確立することが大事な気がする

古代からあった農民と領主の関係であっても、現代のオーナーと社員がいるという関係であっても、一個の経済活動を行う関係性という意味ではかわらない。それが不平等、つまりブラックかどうかという違いがあるだけだ。また、昔はその経済活動を行う関係性が、村というお互いの顔がわかる範囲での「愛情空間」だけで成立していたものが、現代はその関わる人の範囲が拡大し「貨幣空間」とよばれる知らない人をまきこんだものになっているという違いがある。

ただ、昔も愛情空間だけで経済活動が行われていたかっていうとそうでもない。だいたい年貢を収める相手からして、よくわからない人、ってことになっていただろうし、年貢の対象とならない農作物に関しては、県境にて市をやり無縁空間での経済活動は行われていた。

たぶん、現代と昔の違いは、昔に貨幣空間がなかったのではなく、今に顔が知れる範囲での愛情空間で経済活動が行われることが建前上なくなっているってことだろう。会社というのはぎりぎり、そんな状況の中で、愛情空間での経済活動の名残を残している。建前は貨幣空間の中での活動組織なのだが、実態は愛情空間としての関係性をもっているという形でよく言えばハイブリッド、悪く言えば中途半端な状況。

ところで、会社そのものを解体して、純粋に個人が貨幣空間で活動できるようになりたいと、ノマドと呼ばれる人たちは活動する。多分彼らはこういう中途半端な状況を解体したいのだと思う。貨幣空間で活動するということを純粋化すると、経済活動から人間関係を取り除きたくなるのは当然。じゃあ愛情空間はいらないのかというとそうでもないが、彼らはたぶんそこは、逆で貨幣空間がまったくはいらない、純粋な愛情だけで成立する愛情空間を作りたい、もっているのだとおもう。

しかし、そんな自力で貨幣空間の中で活動し、自分の魅力だけで愛情空間を作るというのは相当能力が求められる。普通の人は、たまたま集まった会社組織で、そこそこの関係性の愛情空間を作り上げ、また、話し合いなど愛情空間の論理が邪魔をする中途半端な会社という貨幣活動の主体で生きていくのが楽だ。

ただ、経済活動ということだけを考えると、ノマドなひとたちがいうように、今の会社に愛情空間を持ち込んで中途半端な経済活動を行っている状況はかなりダメなのは事実。ここを解決するの、個人が愛情空間をきっちり確保することだと思う。そうすれば会社にそういうものを持ち込まずもっとドライな関係性ですむようになる。個人が愛情空間をきっちり確保するということは、「イエ」制度をきっちりする、ってことなんだと思う。魅力がある人は、そういう血縁的なものがなくともなんとかなるが、普通の人にとっては、無条件で愛情空間をつくることができるのは血縁が重要になる。

愛情空間は、愛憎空間でもあり、面倒くさいしがらみがたくさん生まれ、それは個人にとっては、とても面倒くさいことなのだけれど、経済活動を活性化するには逆説的にそうするしかないのではないかなと思ったりする。

自分がエヴァンゲリオンが好きな理由

愛情空間と貨幣空間の例えで考えると、自分がなんでエヴァンゲリオンが好きだったかって、たぶん愛情空間が貨幣空間に負けるだろうという推測があって、しかも実際にほとんどそうなってしまったっていうところなんですよね。結局細かい人間関係は全て崩壊して、すべてがひとしくわかりやすい理屈(LCLの海)になるというのが、中二病的に愛情空間を憎んでいた時代から今にいたるまで、なんかすっきりして、ディストピア的妄想にしっくりきたのだろうなぁと思ったりしました。

エヴァンゲリオンと使徒 愛情空間と貨幣空間

(日本人)

(日本人)


橘玲の(日本人)の冒頭で、エヴァンゲリオンは、家族や親しい友達で構成される愛情空間に対する、グローバリズム的公平な貨幣空間の理屈が侵入してくる話なんだということが書かれていて面白かった。言葉はわからないが、シンプルでわかりやすい理屈(なにかにむかって、すべてをなぎたおす)使徒は貨幣の理屈に例えられている。それに対する人間の行動は、愛情空間の愛憎いりまじる、わかりづらい関係性のなか、動いていく。面白い例えだなー。でも愛情空間だけでほそぼそやってきたひと(人類)は貨幣空間の理屈に対抗できないから、愛情空間のなかでも、貨幣空間の理屈をなんとかひねりだして(エヴァンゲリオン)理屈は分からないまま対抗していく。これは日本人がグローバリズムにのみこまれていくことを描いている、というわけですよ。

はてなブログとかきれいなデザインのとこよりはてなダイアリーみたいなWEB1.0の名残があるデザインのところが書きやすい

あーやっぱダイアリー落ち着くわー。有料プラン980円とか頭おかしい値段じゃないし。あとデザインがへぼいのがいい。もうなんかオシャレとかしなくていいかんじでかけるよね。なんとかができるなんとかの方法とかそういうの考えなくてもいいもんね。なんかブログがはやって日記がすたれて、ネットに流通するコンテンツはたしかにクオリティがあがったのは間違いないんだけど、前にあったみたいに、あたまがおかしいひとのひとりごとみたいなコンテンツがとても探しづらくなったりした。無駄にデザインテンプレートのクオリティがあがったことによる功罪ですよ。で、いまひとりごとみたいなコンテンツは、2ちゃんねるとか匿名日記とかじゃないですか。ほら、やっぱすげ古い感じのデザイン。いや、いいんですよ、両方あって。ただ、なんでもかんでも代官山みたいな空間にネットがなるのはつらいですよね。UX大事ですけど、UX大事っていっているひとってみんな代官山好とかきそうですよね。しらんけど。UX考え抜いた結果、ださいデザインにすべきものもありますね。やっぱダイアリー最高。有料プラン280円だし。はてなカウンターうんこだけど。

武士道

武士道 (講談社学術文庫)

武士道 (講談社学術文庫)


読み始めた。仏教から、最近武士に興味がうつりつつある。結局南極、日本人は武士が好きで、武士的精神を心の支えにしている気がする。体育会系とかも武士っぽいし、ビジネスもやたら戦国時代に例えられたり。そんで、私はそういうのが暑苦しくて嫌いで。ただまぁ、嫌いなんだけど、どっか自分も準拠しているところがあったりして。このもやもや。で、武士道について調べてみようと思って、本探してみると暑苦しい本ばっかり、理想ばっかり。武士道の負の部分をちゃんと書いている本はないか、批判的な本ないかなぁとおもって調べてるとこの本に出会いました。冒頭まさに、上にかいたような私の心情をあらわすような、もやもやが正直に書かれていて好感がもてて。内容的にも例えば室町の武士は、人に嫌われるな、目立つな、ということを徹底的に考えている武士が多かったみたいな話があり。まぁあるいみ控えめな武士道精神だが、こんな人ばっかりだったら、世の中なんもかわらんよねーみたいな苦言を著者はいっていて。そう、武士道のその保守的なところがいやなんですよね、と思ったり。本当の「武士」の心情、きれいごとばかりではなかったであろう事実が少しずつ見えてきて面白いです。まだ読んでます。

武士道とビジネス 仏教とUCD

武士道は、味方に甘く、敵に厳しい。家族、親しきものには情をもつが憎むべき他人がいれば仇討をする。名誉が中心。
仏教、とくに大乗仏教は、敵味方をわけず、衆生すべてを救う。人の救済が中心。
(日本の)ビジネスは武士道であり、競合をつぶすことが中心となりがち。人(お客様)が中心ではない。ビジネスで成功することが中心。基本ゼロサムゲーム。ただ、敵をだしぬくために、人(お客様)を見る(場合もある)。
UCDは、ユーザー中心にサービスを考える。ユーザーが助かる(救いになる)ことであれば徹底的にやる。ユーザーが喜ぶことであれば、基本考え抜く。それは仏教的宗教的情熱に近い。最初はビジネスロジックは考えない場合が多い。プラスサムゲーム(を施行する)。ただ、ユーザー中心に考えることができる土壌をつくるために、結果的にビジネスも考える(考えざる負えない)。
UCD、UX者は宗教家に似てくる。悪い意味で宗教と言われたりする。ビジネスマン、経営者は侍に例えられる。ビジネスは戦国時代に例えられたり、経営者が将軍を好んだり。この違いは、この類似性からではないか。