Leanな生活について考えるブログ

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日本の葬式仏教はとてもバランスのとれた良い中二病である

日本での仏教つーのは、葬式仏教なんていわれて、まぁ普段あんまり気にしない程度のものだったりしている。たまに法事で、説法きいてへーとおもったり。もうすこし踏み込むと、カジュアルにテレビとか本とかで般若心経とかの解説本よんだりして、へーっとおもったりする。
でもまぁ、日本人の識者にいわせると、そのレベルで宗教を捉えているのは良くない、もっと真面目にかんがえろ!っていって葬式仏教なんてものを否定する人もいる。まぁわからんでもない。
そういうカジュアルによく唱えられる「説法」のひとつに、このよのすべては幻的なものだから、まぁあんまりくよくよすんな、とかそういうのがある。それを完全に理解したら、悟りがひらけて、悩みとか煩悩から解き放たれるよ、みたいな筋書きがある。いわゆる色即是空ってやつです。
そこの境地までいかなくても、色即是空とか聞くと、あーなんかくよくよしててもしかたねーなーって思えるところは凡人でも、なんとなく思えるし、ちょっとすっきりする。
仏教の話でぴんとこない人には、宇宙規模の巨大な話をきくと、人間ってちっぽけだな、くよくよしててもつまらんな、みたいな感覚に近いというとわかってもらえるだろうか。
で、この程度で話が終わる分にはとてもいい話だとおもう。人間関係に疲れている社会人にはたまには、こういう境地にふれることが必要。カジュアル座禅やカジュアル写経は超重要で、宇宙の話とかを勉強するのもとてもいいことなわけですね。で、次の日からはまたそんな小難しい話はわすれて、世間の波にもまれていく。
これを、まぁ矛盾した生き方と否定するのは簡単なんですが、とても安全な考え方だとおもう。この論理の延長上には、若干病気でカルトな世界がまっていて、家族とか友達とかの共同体を全否定して、個人と巨大な「世界」が直接つながりうるような感覚になり、万能感をえられるようになる。ここまでいくと病気なわけです、いわゆる中二病。生きる上で世の中馬鹿にしすぎて、社会生活に支障をきたすから。あとカルト宗教になってしまう。
あと、この境地までいくと、葬式仏教的なものも全否定したくなる。カジュアルに一時しのぎで悩みを解決するな、そもそも世俗への思いをすべて捨て出家しろ!中途半端なことやってんじゃねえ!という感じ。
っつーわけで、やばい。
そこまで行ってしまった人への処方箋としては、そういう家族とか共同体を否定している君がなんで満足感を得られるのか、その理由をはなしてあげればよい。実は、君はただ、今所属している人間関係とは違う、別のつながりを作りたいだけだ、という事実。この世はむなしい、無常であるといっている人たちが、たくさんいて、そういう「真実」をわかっている人たちと傷をなめあいしたいだけなんだ、という話。
中二病と仏教の違いは、そういう部分を自覚しているかしていないかなんだろう、と思う。そういう世の中を全否定してしまいたくなる心境は教義のなかで徹底否定されている。この部分を徹底しているのは上座部(小乗)仏教。
じゃあ完全に、そういう中二病的なひとたちの集まりと仏教が関係ないか、ってうとそうでもなくて、なかばたぶん意図的に中二病側にふみだしているのが大乗仏教。そもそも人を救いたい、ってのは要は、世俗とは別に「わかっている」仲間をつくりたい、っていう欲求が強まっている状態だと思う。(だからこそ上座部では人を救いたいというのは否定している)。
大乗仏教のうち、葬式仏教とよばれるような世間に浸透した仏教は、そういう傷の舐めあいにならないように、理屈で語るのではない進化の仕方をしたのだとおもう。念仏をとなえればいいとか、坐禅をすればいいとか、身体的な感覚でこの世は空だということをなんとなく気づかせるレベルにとどめる。意識化させない。非日常を少し感じさせ、世の中と少し一体化させるレベルにとどめている。がちで修行を普通の人たちにさせすぎない。この延長上には、葬式仏教がまっていて、法事のときだけ説法をきいて非日常を得るぐらいになる。
中二病でカルトになる危険性を避けて、ただ、世の中の人間関係の疲れを癒す程度に人々に救いをあたえるには葬式仏教とかカジュアル宗教体験が一番いい、ていう結論になるんじゃないかなぁと思う。