Leanな生活について考えるブログ

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匿名性は(日本においては)公共空間を作る手がかり。

日本においては匿名性でこそはじめて西洋と同じ(ような)個人を確立できると思っています。


といっても説明するのがすげえ面倒くせえので、適当に省いて書くと、この日本社会においては人が顕名性をはっきりと打ち出すは、その所属する「世間」のなかのどういう立場かということしかいっていないからです。

そして人は「世間」の中では同調圧力などによって、「個人」としての意見はねじまげられてしまう。ようするに空気をよんでしまうわけです。

「実名」でもしなにか、犯罪などをおこしたとしても「世間」にたいしてご迷惑をおかけしたことをわびるばかり。「世間」以外の人への考慮はほとんどなされていないわけですよ。


オシム氏に突然訪問した日本人の話もそうです。結局「村社会」のなかではうけいれられる行為なのかもしれませんが、「村以外」のひとたちを考慮していないようにおもえる。


実はネット空間とは、かなり理想の「公共空間」です。なぜなら、ひとりひとりの個人情報はサーバーに蓄積され、もしも犯罪をおかしたならばあっというまにログの公開をもとめられ、個人が特定されてしまうわけなので。


本当にいろいろな問題を解決しようと思うなら、匿名だろうが実名だろうがそのさきにある「個人」のことをそうぞうするのが、うまくいく方法だとおもいます。どんな発言だって、「ああ、本当におもったことなんだろう、このひとが」と思えばいいんじゃないでしょうか。「実名」のほうが「世間」のバイアスがかかっているだけあやしい発言です。

想像力の問題だとおもうんですよね。

と、意味がわからない人にはまったく意味がわからんだろう文章。