Leanな生活について考えるブログ

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SNSと主体化と動物化

SNSに人が入らない理由、SNSがそれでも人が増え続ける理由、そしてSNSのなかであろうと掲示板は荒れる原因を「主体的」「動物的」をキーワードに考えてみる。

SNSを人にさそうとき「ひとさまにお見せするような日々をおくっていない」といって断る人がいる。また、「人の日記を見る趣味はない」という答えもかえってくる。

日記に書くべき自己がない、という話からいえるのは、逆に言えば日記を書くためには主体化が必要であるということでもある。快、不快だけを判断基準として日記をかきつづけようとおもってもなかなか続くものではない。そこに自分というものをかきつけていきたい。しかし自分はそのような「主体的」行動によって物事を判断したりすることが少ないので「おみせできない」ものになってしまうというわけだ。そして、別にそのような主体的行動をとる必要がないと考える。

日記を書いて公開しようとする以上、大なり小なり、自分はこういう人間であることの表明であるとおもう。自分がこういうふうに「主体的」に自己決定したということの表明。

ひねくれていうならば、「動物的」である自分の表明を主体的に自己決定して書き連ねているものもあるとおもう。

俗に言うところの「自分がたり」のような自己実現的、悪く言えば自己満足的な記述と日記の親和性がたかいのはそういう部分でもある。主体的に自己を見つめ、自分が何を思ったかを記述する。コミュニケーションをとる。

そして、日記を読みたいということは「主体化」された他人を見たいということでもある。主体化への憧れ。面白い日記とは、「自分」を持った、キャラがたった日記であるとよくいわれる。キャラをたたせるためにはただたんに動物的では難しい。

逆に受動的なコミュニケーションとはなにか。それはさきほどからのべているように動物的ということである。快/不快のコードに基づき刹那的に生きるポストモダニズムないきかた。脱社会化されたつきぬけた超人的生き方。

ところが、そういった佇まいには寂しさがつきまとう。それはなにか。つまり、誰にも見られていないかもしれないという不安である。社会的に生きていないがゆえに、自分がいようといまいと周りの人間に影響を与えることはあまりない。それゆえの孤独である。

ゆえにそういった事態に耐えられない人々は、必要のなくなった主体化という作用に憧れる。そして自らの意思で主体化された人格として自己観察による記述=日記をはじめようとおもうのではないか。

もしも徹底的に主体化を否定し、生きていくことができるというならばそれはそれで否定すべきことはない。社会的にはマイナスであるが。そういった視点はいったん置いておけば自己実現の方法としては、間違いではない。

ただしそういった、動物的な繋がり、せつな的な繋がりだけを生きるということは半端ではなく難しいことであることを自覚すべきだ。

聞くところによれば、主体化を否定したコギャルたちは、今は精神安定剤などの薬づけになってキャバ嬢をやっているときく。かなりの部分が、その動物的なコミュニケーションに耐えられずにメンヘラー化するのである。また、動物化されたヲタクたちがひきこもりになり、メンヘラーと化しているのはいうまでもない。

ではそういった動物化することを否定し、主体化でいきようとしたときに生まれる問題点を考えてみる。



そもそも主体化とはなにか。主体化とは自己を明確にもち、自己決定を繰り返し生きていく方法を身につけた存在になることである。

近代社会の初期機能的分化社会においては、主体的に生きることを権力によって要求された。権力によってつねに主体化されるよう監視され教育された。さもなくば機能的分化がなりたたないのである。

つねに見られる自分を意識することで主体的な意識を手に入れることができた。しかし後期機能的分化社会においては、人々は主体化せずとも、潜在化=自動化されたメディア機能により生きていくことが可能になったのだ。これを脱主体化という。

脱主体化の世の中になると、逆に誰にも見られていないという孤独感にさいなまれる。自分がおきているのか眠っているのかわからないまどろみのなかで寂しさを感じる。主体的になりたいと願う。しかしそういった「主体化」は脱主体化以前の時代のように、規律を守るように訓練され、主体化する必要があった時代の「主体化」とは異なってしまう。どう違うのか。主体化を可能にする、人々が準拠する基準が脱主体化された以降の時代においては存在しない、見つけにくいのである。

しかしそれでも人々は、自らの空虚な内側を隠すように「主体化」欲望を持ってしまう。主体化をすることで、社会システムのなかにいるという実感をもてるのであり、さもなくば孤独に舞い戻る。

しかしこうして主体化欲望を達成しようとしたときに、その達成の仕方で二種類にわけられてしまう。SNSのなかでネタ的コミュニケーションを繰り返す人々と、わかりきっているようなことを声高に素朴に発言してしまうベタ的コミュニケーションを繰り返す人々である。

この違いはなにか。それは「主体的」ということが虚構だと自覚しているかどうかという点だ。

つまり、主体化しなければならないという命令が、アイロニーであると自覚している「終わりなき再起性」を生きる人と、アイロニーであることを自覚できない「終わりある再起性」、つまりタン的に反省性を生きる人である。



主体的に生きるべきだと声高にベタにいう一部の人が叫ぶ。動物的に欲望に生きることはくだらないと道徳論をふりかざす。こういったひとが「終わりある再規性」を生きていると信じているひとである。その「べき」とはどこからくる結論なのか。主体的に生きずとも人は成熟社会のなかでどう粒的に生きようと思えば生きていくことができる。

そもそも主体的という人間に限って、本当に主体的に生きているのかがわからない。「べき」というからには自分なりに再帰的に主体性について思考し、データをもとに主体性を定義していかなければならないだろう。

にもかかわらず、誰かに伝え聞いた「主体的に生きるべきだ」という言葉を受動的にベタにうけとり、それを達成しているだけにすぎないのではないか。

というような言説はまさに「主体的」な選択で否定している。アイロニーである。アイロニーはわらえる。

近代システムというものを考えたときに、どうあがいたところでアイロニーが消えることはないということがわかっているならば、主体的に生きるべきなんてベタな発言はできないと思うのだが。

少し例を出すだけで自己決定のアイロニズムなんていくらでもいえる。すでに準拠すべき外部が後期機能分化社会においては存在しないからである。

自己決定とは難しいことなのである。その難しさをわからず盲目的に「ぼくはこれがいいからこれにするのである」といった幼児的自己決定をするような非アイロニカルな自己決定は見苦しいだけではなく、社会制度を築く上で害である。

アイロニカルでないものに「アイロニカル」であれと諭したときの典型的反応こそが「論点が違う」という部分である。

だがアイロニカルであると自覚していないものが出す結論は決定論的になりがちであり、議論の余地を残さないものが多い。というより議論すべき点が見つからないほど素朴なのである。

道徳的な観点をもちだす。だがその道徳をもたらす共同体をまもるべき、集権的分配を否定すれば、共同体はほろびる。素朴な共同体的道徳観はなりたたない。

さて、しかしながらここでアイロニカルであることを選択したとしても注意すべきなのである。アイロニカルである人々にとって今いったようなべたなコミュニケーションを繰り返す人はノイズにしかとらえることができない。

場の空気を読まないもの(=アイロニカルでないもの)を排除するという行為を徹底してしまえばそれはすでにアイロニカルではなく、「アイロニカルであれ」というアイロニカルを軸にした共同体がもたらす道徳である。それでは結局のところ<アイロニカルであるわたしたち>に準拠した共同体が形成されることにほかならないだろう。

真にアイロニカルたらんとするならば、そうした状況もアイロニカルにみつめ、ネタとしてやりすごすしかない。

もしくはいぶかしみながら自己決定的に、うたがいながら自己実現をおこなうべきだろう。

まとめてみる。SNSに人が入らない理由。主体的に生きる、自己決定に臆病な人々が多く、受動的に生きる人々が多数であるから。しかしそれでもSNSに人が増え続ける理由。動物的<快/不快>だけのコミュニティに耐え切れなくなった人々が少なくなくいるから。とはいいながら全面的に非動物的=主体的になるのは疑わしい。が、それでも動物的な孤独はいやだ。しかし・・・という終わりなき再起性に入り、アイロニカルなネタ的日記を記述することになる。もしくは、動物的なものへの嫌悪度が高すぎ、反動的に非アイロニカルに主体的になろうとする。そしてベタ的コミュニケーション、日記を繰り広げ、ネタ的コミュニケーションをとろうとするmixi多数者の反感、嘲笑をかうことになる。しかし直情的にベタ的コミュニケーションをくりかえすものを排除する、ヒステリックに煽る行動をとってしまえば、その瞬間からアイロニカルではなくなる。<荒らし=ベタ的コミュニケーションをとるもの>は無視、が原則なのだ。さもなくば<荒らしに反応するものも荒らし>なのだ。か?



と、うたがいながら自己決定的に結論づけてみる。

あ、注としてもうすこしつけくわえると、動物化された人、アイロニカルに主体的な人、ベタに主体的な人という3パターンが極端に存在するのではないですよ。グラデーションのように、動物からベタに主体的まで存在しているわけです。端的に動物な人とか、端的にベタな人はおそらく少ないでしょう。