Leanな生活について考えるブログ

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幻想とは何を見ないか、というフィルターである


人々は幻想なしには生きていけない。

幻想とは何を意図的に見るかというフィルターというよりは、何を意図的に見ないかというフィルターによってもたらされる状態なのだ。それは即ち地震によるトラウマをもった人々が、地震に関するものを見るとフラッシュバックが起こってしまうため、なるべく避けるようになってしまうという状態と同じである。

邦楽幻想マップヴァージョン0.9http://d.hatena.ne.jp/miyatad/20050311 によって分けた幻想で例を出してみる。

ヒップホップタフネス幻想=現実にある人間の弱さを見ない。
メガネサブカル幻想=現実にある人間の醜さを見ない。
パンク幻想=理想にむかって客観的に突き進むという方向を見ない。ローカル性。理想にある世界の美しさを見ない。
v系ロック幻想=世の中の人々と仲良くやれるという理想への方向を見ない。ローカル性。理想にある人間の強さを見ない。

これはあくまで音楽に関する幻想の区分であるが、あまねく文化的幻想はこれらに付随するものであるとおもう。


人は普段無意識に、見たいものを見ていて見たくないものを見ていない。聴きたくないものは聴いていないし、考えたくないものは考えていない。

写真とは本来恐ろしいものである。人が意識しないものまで映りこむ。だが、それを人々は、作者が意図して撮ったものだとどこかで信じている。だけれども方向性はある程度作者が決めることが出来るものの完全にコントロールできるはずもない。光の一つ一つを作者が意図して配置できるわけがない。

そこには、人が見たくなかったものも映りこんでいる。それは本来恐ろしいことである。世界とは、何が起こるか本来わからないものであり、下手したら人が意図しない方向から何か自分を殺すものがでてくるかもしれないのだ。

だから普段人々は、「意識して」ものをみる。それ以外のものは「無意識」に封じ込め、見ているのだけれども見ていない状態になる。

無意識に封じ込められたものこそが、世界−幻想=トラウマ的なもの。

そして世界−トラウマ的なもの=幻想 なのだ。

外部の敵、があるから幻想はなりたつともいえる。

同じ幻想を持つものが集まって集団を作るのは、そうした、共通の見ないものをもっている人同士が集まれば、びくびくせずにすむからである。たとえばパンク幻想のひととメガネサブカル幻想のひとが居合わせてしまえば、お互いに見ないようにしてるものをその相手に「見えてるよ」と教えあうことになる。メガネサブカルはパンクにむかって「汗臭い、醜い、不細工、きもい」と言い放ち、パンクはメガネサブカルにむかって「なよい、現実見てない、ファッションパンクが!!!」と言い放つ。この状態こそがコミュニティの抗争の大本だ。

前に幻想は「幻覚」(無意識的なもの)と「思想」(意識的なもの)という風にかいた。これは正確にはやはりおかしいことになる。

正確にいうと「幻覚」(許容できる無意識的なもの)と「思想」(意識的なもの)で、幻想という状態はできており、幻想によりフィルタリングされたほかのものたちは「トラウマ」(許容できない無意識的なもの)ということになる。

(幻覚+思想)+トラウマ(=敵)=世界

幻想という現象が人間に起こってしまうのは、生きるうえで、いらない情報、考えないほうがいい情報を排除しようとする脳の機能によるものであるというのがボクの仮説である。

決して理想を追い求めた結果の積極的な理由で幻想が生まれるのではなく、どちらかというと逃避的な理由により、幻想とは生まれるのではないか。それが音楽であれ、思想であれ、宗教であれ。


これをふまえてデザインとアートが違うということを説明してみる。

デザインとは、幻想を持っている人々に、心地よい幻想を抱いてもらうために、トラウマを排除した、幻想を見せてあげることである。
アートとは、幻想を持っている人々に、その幻想で本当に言いのか?と文句を言い、見るものに自分の状態を確認させるという行為である。

今ややこしいのは言ってしまえば「アートチックデザイン」である。つまりこういうことである。アートを見る、という行為に無条件に快楽を得てしまうような幻想(=メガネサブカル)な人々のためにアートチックなデザインのものを提供する「アート作品」こそが「アートチックデザイン」。似非アートだ。

スーパーフラットという考え方が「アートチックデザイン」に見えてしまうのはなぜですか。

ファッションパンクも、パンク幻想の人のためのデザインされた音楽であるし、今のギャングスタラップもヒップホップタフネス幻想にとってデザインされたものなのだろう。

おしゃれサブカルが嫌われるのも、そういった「アートチックデザイン」的なものを好む人が多いからだとおもう。

別にそういった幻想に生きるのはかまわないが、「自分はアートを取り入れて、幻想をのりこえているぞ」というポーズをとりながらただ、努力のいらない幻想の中で生きているのがみえみえだからうざいのだ。

人には色々な生きかたがあるわけでそれを否定していたら世の中まとまるわけがない。が、幻想にとらわれすぎれば、わりにトラウマ的な衝撃に弱い人格となってしまうことは否めないだろう。







★参考
・前の日記
・邦楽幻想マップヴァージョン0.9http://d.hatena.ne.jp/miyatad/20050311


幻想は

幻覚+思想によって成り立つ。

思想とは「記号情報による意味把握された要素」であり「意識部分」である。幻覚とは「記号にすることのできないノイズ部分による要素」であり「無意識部分」である。

とすると話は多少簡単になる。

幻想にはさまざまな種類のものがある。

音楽による幻想(ロック幻想)、宗教による幻想(キリスト教原理主義)、思想による幻想(マルクス主義)。

音楽とは「音韻」と「音響」でできてる。
絵画とは「構図」と「印象」でできている。
宗教とは「バイブル」と「神秘体験」によってできている。

西欧的強迫観念により人は、「幻覚」を「思想」におきかえる作業に没頭していく。音楽においてはその最果てがサイン波による倍音消去の感覚であり、芸術においてはミニマリズム的芸術へと、そしてノイズを表現内容へとかえていく。ノイズ自体を意味内容へとおきかえる。ジャクソンポロックのように。神秘体験は体系化され、脳内現象として分析され、ドラッグがうまれる。ドラッグでいかにキマルかを解説した「バイブル」が生まれる。

音楽においては、歌詞などの音韻情報は次第に、ないがしろにされはじめ、どこでその音楽をきいたか(ライブか家か)または、いかにいい音できくかというそういった音響情報が重視されるようになっている。この流れは、西欧的記号化からの逆流であるともいえるし、音響情報を意味内容として把握しコントロールしたいという欲望の結果であるともいえる。

とらえられないものをそのままにしてたのしむという感覚は、快楽主義、せつな主義へと人々を走らせる危険思想である。それゆえにキルディスコブームはうまれた。魔女狩りだ。魔女は危険である。記号化をよしとせず世界をありのままにとらえる。快楽を否定しない。幻覚のまどろみのなかを泳いでいる。

幻想は幻覚と思想でできている。それぞれさまざまなタイプの幻想は、出来上がりかたに偏りがある。マルクス主義は思想に傾き、幻覚の要素はないようにみえる。だが、やはりマルクス主義を信じているという点で、集団をつくり、非合理的な活動をおこなった幾多の団体を見ている限り、幻覚要素がまったくなかったとはいえないだろう。逆に、ディスコカルチャーが思想なき幻想であったとしても、そこにはやはり何らかの形で、それぞれに思うところがあったであろうし、世の中に対する不満、ディスコミュージックの歌詞への共感、それから来る自分の未来への欲望、現実の否定。そういったぼんやりした共通した考えたあったことは間違いないと思う。

エンターテイナーとは、この幻想をつくりあげるひとである。彼らは幻覚と思想をうまくコントロールする。自分の意識、無意識両方を使い人々を集め熱狂させる。