Leanな生活について考えるブログ

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幻想とは幻覚と思想でできているという雑多なメモ

幻想は

幻覚+思想によって成り立つ。

思想とは「記号情報による意味把握された要素」であり「意識部分」である。幻覚とは「記号にすることのできないノイズ部分による要素」であり「無意識部分」である。

とすると話は多少簡単になる。

幻想にはさまざまな種類のものがある。

音楽による幻想(ロック幻想)、宗教による幻想(キリスト教原理主義)、思想による幻想(マルクス主義)。

音楽とは「音韻」と「音響」でできてる。
絵画とは「構図」と「印象」でできている。
宗教とは「バイブル」と「神秘体験」によってできている。

西欧的強迫観念により人は、「幻覚」を「思想」におきかえる作業に没頭していく。音楽においてはその最果てがサイン波による倍音消去の感覚であり、芸術においてはミニマリズム的芸術へと、そしてノイズを表現内容へとかえていく。ノイズ自体を意味内容へとおきかえる。ジャクソンポロックのように。神秘体験は体系化され、脳内現象として分析され、ドラッグがうまれる。ドラッグでいかにキマルかを解説した「バイブル」が生まれる。

音楽においては、歌詞などの音韻情報は次第に、ないがしろにされはじめ、どこでその音楽をきいたか(ライブか家か)または、いかにいい音できくかというそういった音響情報が重視されるようになっている。この流れは、西欧的記号化からの逆流であるともいえるし、音響情報を意味内容として把握しコントロールしたいという欲望の結果であるともいえる。

とらえられないものをそのままにしてたのしむという感覚は、快楽主義、せつな主義へと人々を走らせる危険思想である。それゆえにキルディスコブームはうまれた。

幻想には幻覚と思想でできている。それぞれの幻想は偏りがある。マルクス主義は思想に傾き、幻覚の要素はないようにみえる。だが、やはりマルクス主義を信じているという点で、集団をつくり、非合理的な活動をおこなった幾多の団体を見ている限り、幻覚要素がまったくなかったとはいえないだろう。逆に、ディスコカルチャーが思想なき幻想であったとしても、そこにはやはり何らかの形で、それぞれに思うところがあったであろうし、世の中に対する不満、ディスコミュージックの歌詞への共感、それから来る自分の未来への欲望、現実の否定。そういったぼんやりした共通した考えたあったことは間違いないと思う。

エンターテイナーとは、この幻想をつくりあげるひとである。彼らは幻覚と思想をうまくコントロールする。自分の意識、無意識両方を使い人々を集め熱狂させる。