Leanな生活について考えるブログ

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幻想

というかやね。mixiでお勧めレビューをかけるコーナーがあるわけなのだが、このなかで「世界の中心でアイを叫ぶ」のレビューをかくとこがあるわけですよ。で、まぁこの映画代注目の映画でしたし、レビューの数もめっちゃ多くて。

で、まあおもうままにみんな書いてるわけなんだが、最近やたらと「俺はなけなかった」という風に書いてる人がとてもおおいのですが。

あ、俺も全然なけなかったわけですが、なんつーかあれよな。ありがちよな。ありがちすぎるわ。なけるもなけないもありがちすぎる。

これはつまり、なにかの「幻想」(せかちゅうつまんね、人間えがけてねえ、もっといい映画がたくさんある、文学とか)を信じているグループが他の「幻想」(せかちゅうすばらしい、純愛すばらしい)を信じているひとたちを責めるっちうありがちな構図ですよね。

で、なんでやたら喧嘩腰なのかっつうと、それはマイナーな「幻想」を抱いている方が、メジャーな「幻想」を抱いてる方に虐げられる、いめーじがあるからやたら反抗的やねんな。もう、この構図はくさるほど見受けられるわけよな。

で、困ったことは「マイナー」な幻想を抱いている方が、自分たちが信じているものを「幻想」であるとは認めないってところにあんねんな。それこそが「真実」で「正しい」。

なんでこんなことになるかってえと、マイナーであるがゆえに、おなじ「幻想」を信じている人に出会いにくい。それゆえに自分たちが、コミュニティを持っているということに気づきにくい。だもんで、「あいつら、あんな純愛とかをしんじて、流行にながされて、みんなが右向きゃ右かよ!」とかいってる。でも違う。自分たちの幻想のなかの流行に本当はながされてる。それゆえに、誰かその小さな幻想のコミュニティのなかでリーダー格がでてくればあっというまに、それに流される。

で、カルトができあがる。

この構図はたとえばコミュニタリアンリベラリストの対決の構図にもみられ、リベラリストなひとたちは、コミュニタリアンにたいし、「あいつらみんなといっしょじゃなきゃなんもできねえうぜえ」とかいってるけど、自分たちもそういう「主義」を信じているコミュニティに属しているということをわすれてしまう。


俺が今文句をいうことがあるとすれば、「なんでそんなけんかごしにせかちゅうつまらんとかいう必要あんねん」っていうね。いまさらな話なわけですが。本当に今さらですね。

ただ、コミュニティ同士のけんかは本当、みててしんどいものがあるんでさー。自称「批評家」なみなさんはきをつけようー。コメントとかな。



>俺



でもまぁ、しょうがないところもあるのよね。結局どこかの幻想を正しいと信じきっていないと、なにも発言できないからね。「幻想をうそだってわかりながら上手につきあう」っていうのは言うほど簡単ではない。

だってほら、みんな嫌いな音楽とか絶対きけないでしょ?好きな音楽なんて、まぁただのファンタジーっておもってるけど、自分の理想の幻想ではない音楽は「生理的に」うけつけない。

すべてが幻想ってほんとに悟れたら、ネ申ですわよね。