Leanな生活について考えるブログ

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メガネロック論と不細工青春パンク論

くるりを始祖とするメガネロックとはつまり「末期型学校化社会」内部からの反発の象徴であり、青春パンクとは「末期方学校化」外部からの反発の象徴なのであります。
 
もっと簡単に言わせていただけるならば、両者とも「末期型学校化社会」のヒーローであるところの「運動もできて勉強もそこそこできて、世の中なんてくだらねーとかいいながらさっさと会社に所属しなんだかんだと出世コースにのってしまうような、イケメン野郎」に対するレジスタンス達なのです。
 
仮に、今述べたような典型的な「末期型学校化社会」の「勝ち組」を「人気者組」と名づけるとしましょう。彼らにとっては「前期型学校化社会」の「勝ち組」である、「運動はできないけど勉強はできる」委員長タイプは、「強度」を持たないただのアホであるわけです。いわずもがな「勉強も運動もできずに不細工である」、前期では多少ヤンキー文化として日の目をあびたものの、末期になればただのDQNとしてしか扱われない哀れなヒエラルキーの下っ端などアホ以下、人間にすら見てもらえない。
 
そんな20世紀末の彼らは、学校から抜け出すことの出来ない中で、ひらすら悩み続けていた。「ちくしょう、あいつら一人で女をひとりじめしやがって」。しかし、彼らは悩み続け、また弱者であるがゆえに、広い視点をもつことができたのです。「本当にあいつらは勝ち組なんだろうか?俺たちは負け組みなのか?だいたい正しいってなんだよ?勝ち組ってなんだ?」と。
 
古来、音楽と思想は、切手も切れない関係にあります。ヒッピー文化には、ロック文化が。ハイカルチャーにはクラシック文化が。
 
それらは決して思想とよべるほど、確かなものではありませんでしたが、それぞれ、自分たちの信じる、ある考えも間違っていないのではないかと、確信していきました。
 
で、その思想ってのはなんだっつーと「勝ちだの負けだのくだらねーんだよ」と。簡単に言ってしまえばそういうことでした。そんでメガネ族はひたすらその極めて真面目な性格から「音楽」を極めるために古今東西ありとあらゆる音楽を聴き、そしてただ、音楽の快楽に身をゆだねることを覚えました。青春パンク族は、パンクというひたすら音楽なんざわからんでもその場の衝動で叫び、叫び、叫び続け、狭いグループとの一体感を感じることで得る快楽を覚えました。
 
そのなかで、メガネとは、ある意味、学校化競争社会のある側面での負け組みたちにとっての生きていく上でのシンボルとなりました。メガネは、メガネでいいと。メガネをコンタクトにして、かっこつけるなんて、バブル組がせいいっぱいオシャレしてかっこつけてるみたいでだせーと。おまえら勝ち組とかいってるけどぶっちゃけかっこわるいぞと。また青春パンクたちは、不細工であることがシンボルとなりました。それは前者のメガネ族たちと同じような理由で、おまえらかっこつけたってそんなもんアメリカさんの借りもんのかっこよさだろうと。横文字並べてかっこつけてんじゃねえぞと。軍隊にでもはいっとけと。ガガガSPとかね。
 
まぁそんなわけなのです。メガネ族と青春パンク族は、ゆえに、学校化社会の元々は対立する部族だったわけですが、末期型学校化社会において、負け組という共通点をみつけ融合したりしなかったりしていくのです。
 
そんでボサボサヘアの予備校ロックたち、アジアンカンフージェネレーション、サンボマスターたちがうまれていくのでした。

あ、もちろん上でだした人たちは、典型的なひとたちで、メガネをしてないメガネロック的な人もいるし、かっこいい青春パンクな人たちもいるわけですがね。んでもって、じゃあ、その「末期型学校化社会」の勝ち組である「イケメン」君たちは何を聞いてるかっていうと、タフさの象徴ヒップホップ、もしくはさっさと音楽なんかにみきりをつけて、他の楽しい遊びを見つけているってわけかも。ね。ははっ。