Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

メモ2:アンチポストモダン=モダンorプレモダン

  • ポストモダンの時代は「徹底した記号化」の時代だったとすれば、それにたいする反発のほこさきは、①記号化そのものにたいする反発②記号化はよしとして、「精神の」記号化にたいする反発、と2種類にわけられることになるだろう。基本的に「今の文化はだめじゃ〜」とかいってる文化人の多くは②にあてはまる。つまりモダンの時代に帰ろう、というものである。天皇という神聖のものを頂において、精神は不可侵なものとする。それ以外の記号化はほっておく。そういうのが最近のナショナリズムだったりする。だが、記号化そのものの否定には向かわないため、結局はポストモダンの一つとして回収され、サブカルナショナリズムなどと揶揄されたりする。プチナショナリズムとか。
  • では、「記号化」そのものにたいするアンチテーゼは生まれなかったのか。捨て去ろうとする考え方は一般的には生まれなかったことになっていると思う。もしもそういう人がいたとしたら、山の奥で一人で自給自足の生活をおくらなければならなくなるからである。そういう人たちもいただろうが、それでも最低限の商業活動は行わなければ生きていけなかっただろうし、やはり「記号化」なしの時代には戻れなかっただろう。
  • 記号化でもっとも恐ろしいのは、偶然性、ノイズの締め出しである。そこには犯罪も生まれにくいが創造性がうまれにくい。アートの消滅、エンターテイメントの隆盛である。
  • 自由を考えるで東氏と大沢氏がさかんに、「プライバシー侵害」と「犯罪する自由」を混乱させるな、といっていたのは、結局前者が「アンチモダニズムからくるプレモダン指向」で後者が「アンチポストモダニズムからくるプレモダン指向」であって両方とも同じ結果にたどりつこうとしていたから。でも思考の過程が違う。
  • っつうことで東氏はポストモダンの学者というか、アンチポストモダンの学者さんなんだろうなという。