Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

メモ

  • 斜面は平面でありながら高さの差が存在する。巡回が生まれる。
  • アーティストが演奏するという画に映像はいらない。そこには演奏者の肉体的躍動の映像とそれから生じる音楽の融合回帰が存在するから。BGMにはBGVを。もしくは映像の演奏者になるしかない
  • 美術を見る際音楽を聴きながらってのは、ずっと同じ白ごはんに色々なおかずをのっけて食べてる気分になる。
  • 技術は肉体化されたものこそが表現の可能性の上限でそれ以上には自由はない。印刷物の色の出方の限界こそが僕の限界。だからできあがりにこだわるんだろうみなさま。
  • 僕たちは他人になれない。他人の視点の想像こそが写真の楽しみ。
  • 近代のデザインとか、漫画のなかとかアニメの中の斬新なデザインてのはほんと恐ろしいぐらい外国ですでに作られている。しらんだけ。しらんだけ。歴史は死ぬほどくりかえされてる。しらんだけ。まぬけなだけ。まぬけになりたくないから知りたいだけ。
  • 外国のふとした日常光景の写真をみるときそこには世界に対する共感が存在しうる。社会の隙間からもの自体をみるという体験は日本人にもできる。問題はそれを表現するときに社会のしがらみが国によって違うために日本人がそのまま外国人と同じ表現をすることは世界を表現することとは違うということだ。
  • ゆがんだ日本という表現は確かに、まるで正当な日本が存在したかのような言い分だけれども、そうじゃない。ただ、元々羽虫だったやつが油虫にあこがれて油虫だ俺はといいはって昔から油虫だった振りをしてそのうち本気で羽虫だったころを忘れてしまうという程度の歪みです。なにも正しいわけじゃない。明治時代までがただしいわけじゃない。
  • 美術品のまえにたって、僕たちは世界をそこに立ち上げなければならない。それは思いのほかしんどいことで、はずかしいことです。入り込むとは、今持っていた、外から持ってきた自分の空気に、美術品の空気をまじらせて、融合させることです。演劇とかがテレビにくらべて、見るのがしんどいのは、何も無い空間に、何かあると想像し世界を自分のなかで再構築しなければならんのです。
  • 美術品のまえにたって、それを楽しむのは、とてもしんどいことです。それは美術館とギャラリーでもちがってくるわけです。ギャラリーにおいては作品の解説すらないばあいがおおくまるでぼくはいったいごみをみてるのかなにをみてるのか、誰も承認してくれない。間違えて部屋を間違えてはいってしまったとしていたら本気でごみを美術とおもいこんでいるかもしれない。そこにある誤配送の危機を楽しめないときつい。大きな美術館はそういう意味ではわりと楽で、客に安心してみていただけるようにキャプションはあるは順路はあるはテーマはあるは。世界をつくっていただいているわけです。自分でつくらなくても。
  • ノイズをたのしめるかってことです。そこにある誤配送の危機とはまさに元々、どんなときでも存在しえたノイズの存在証明なのです。すべての創作はまさにこのノイズから生まれた。決してデータベースのなかには存在しなかった。サブカル(狭義)とアートの違い。きれいにきれいにノイズはとりのぞいてとりのぞいて交換可能性の確率を向上していく。モダニズムとはアンチノイズの時代でした。
  • で思い出したけどこの日記はノイズを作るために書いてるらしいよ。
  • 油断するとノイズは「ノイズ」という言葉そのものにシンボル化されてノイズではなくなる。交換可能なノイズという語義矛盾は平気でおこる。それを自覚できんのがだめなポストモダン芸術。