Leanな生活について考えるブログ

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mixiとは裏返しになったパノプチコン


パノプチコンが裏返しになったものがMIXIなどのSNSやはてなダイアリーだったとしたらどうだろうか。
 
パノプチコンとは、「ジェレミーベンサムが考案したもので、視覚的に全体を見通すことができる建物で、通常「一望監視装置」などと訳される。その目的は内部にいる人間をもっとも効率よく監視し、管理することにある。(中略)ぱのぷちこんは、半円形の建物の周囲に部屋が配置され、監視書が置かれた中央に権力が集中するここう像になっている。各々の部屋の内部は中心から見渡すことができ」るようになっている。
 
パノプチコンとは、功利主義ベンサムが考えた寓話性の高い建物であり、この建物を支えているのは、常に見られているというフィクションを収容者全員に信じ込ませることで、罪を防ぐという考え方である。
 
「パノプチコンの驚くべき点は、このように「見張られているという意識」を愁傷屋の心の中に生み出させることによって、管理するという考え方である。ここに提示されているのは、明らかにキリスト教的な伝統の中にある、常にわたしたちを見ているものとしての「神」だろう。ベンサムが描く建物の構造が指し示すのは、フィクションとしての神の存在であり、「見られていると信じ込まされる」ことによって安定する社会の有様なのである。」
 
しかし、神は、その代行者としての権力は、死んだ。この世を支配していた、道徳観念、倫理観、大澤がいう「第三者の審級」は衰え、「大きな物語」は消滅に向かった。パノプチコンの中央には、だれもいなくなった。
 
これで、権力者がいなくなったのだから、自由になったかと思われた。それは幸せなことだと思われた。意識的な意味では自由になった。

自分で自分を判断し、判断基準はほとんど自分で決めることが出来るようになった。自分の欲望そのままに。
 
そういう状態の社会で、個人はパノプチコンにいることを想像できなくなった。まるで、隣人の顔もしらない、ドアも窓も無いアパートの部屋でじっとしている、そういう個人が無数に存在している。そういう状況を想像することしかできなくなった。
 
そんな状況に耐えることの出来る人間もいた。しかし多くの個人はそうではなかった。
 
彼らは、自由になった欲望の力で、その部屋に穴を開けた。しかも無数に。皆を確認したかった。そして逆説的に誰かから見られていないと不安だった。そうしなければ自分がここにいるということすら、たしかにおもえなかった。また、顔も知らない隣人が襲ってくるかもしれない。そんなときに誰かに見られていれば、安心だった。

見て、見られることで、監視者、神の存在を想定しない中での判断基準をつくることができた。
 
そのとき、つけた穴に対して、誰かから見られることにたいして、誰も「警察国家の横暴だ」と文句を言う人はいない。自分でみずからすすんでつけた穴だから。

穴は不思議な力でできていて、自分の欲望どおりに、見られるものを選別してくれた。自分と同じ趣向、正確、趣味をもっているひとを見ることが出来て、見られることが出来た。

 
気づいてみるとその部屋は、パノプチコンの裏返しになっていた。パノプチコンの中央に「見られるもの」がいて、その周囲に、無数の「見るもの」がいた。
 
何か物を買えば、その履歴に対応して、あなたと似たものを買った人が「自動的に」ピックアップされる。それはすなわち、自分が興味あるというデータをもとにデータベースから機械が自動的にフィルタリングした結果である。

フィルタリングされた「友達」が自分を「見る」。そこには自動的に興味を持ったもの同士のコミュニティが出来る。
 


日記をかけば、その言葉に反応して、同じ言葉に興味をもっているひとが「見てくれる」。

だがその結果、キライなものから受ける影響はなくなった。偶然性が排除された。無意識的自由がなくなった。

パノプチコンから出たとおもわれた人々は、そうではなかった。意識の自由という意味でのパノプチコンからは逃れられたが、無意識という意味でのパノプチコンにはとらえられた。

その中央にいる監視者は、「欲望」という名前の監視者だった。人々の欲望そのままに、人々が意識しないうちに、無意識に、ひととひとを結び付けていく。

それは無意識レベルの不自由である。

人はパノプチコンからでて自由になった。だが自由の牢獄にとらえられた。自由の牢獄から出るために、無意識の不自由を選んだ。欲望を解き明かしそれを論理構造にあてはめたとき、そこから排除されるのが偶然性である。


無意識の不自由の先にあるもの。それは偶然性なき欲望が形作る正直なコミュニティ。そしてそれ同士の、理解不可能からくる、争い。

今その争いを防いでるのは、同じサービスをつかっているという安心感からであろう。しかしこれがいつか統合され、一つのサービスを皆でつかうものとなり、サービスが無名化し、空気のような存在になったとき、コミュニティ同士の争いは間違いなく起こる。

おとぎ話に聞こえるだろうが、SNSがインターナショナル単位まで広まったときのことを考えれば、共感可能な人間の範囲の限界にぶちあたる可能性を考えることはできる。

忘れてはならないのは、敵対している自分と全く趣味があわなく共感できない相手がいたとして、自分が、その相手にもなりえたという偶然性である。それが神無き時代の共生の可能性なんだとおもう。


と、ぐだぐだ御託をのべてきたわけなんだけれどもMIXIは、今の人々の嗜好と間違いなく合っており、しかもなおかつ、コミュニティ同士で固まらないような工夫、リストの表示の偶然性などがインターフェイスに組み込まれていたりするのが面白い。MIXIというシステムがこれから、セキュリティ向上に向かうのか、それとも偶然性をシステムにとりいれ見ず知らずの相容れない人々との交流システムになるのかが見ものです。デスノコミュとかを見ているとセキュリティ向上による無意識の自由の抑圧に走りそうな気がしなくも無い。おわり。