Leanな生活について考えるブログ

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映像の意味。高度なシンボル交換技術。

物と物との等価交換。その連続の先に美は存在する。すべての映像はプログラミングの先に存在している。この場合プログラムとは公義のプログラムで、手続き命令とおきかえてもよい。交換の指示をリストにしたものである。アナログテレビもつまり、交換の先に存在する以上、公義のプログラムによってできている。絵画ですらそうだ。作者の手順、絵の具をここにおくという、プログラムによってできあがる。
歴史の最初、映像の古い期限をたどれば、それは劇場という存在を通り抜ける。ギリシア・ローマ時代、それは記憶法として発展した。自らの内側にある情報を、柱のある部分に対応付ける。たとえば、「駅で本をかってかえる」という記憶を、大きな会社のボードに、なにか自分だけにわかる記号、例えば「本」という文字としておきかえておく。自らの内なる情報と、外側のシンボルとの交換である。
人々は自らを動物ではなく「人間」とするために、「記憶の外在化」を必要とした。人格という英語はpersonalであるがpesonaとは仮面のことである。人は「人間」という仮面を作り上げる必要があり、そのために、記憶の保存が必須であった。
高度なシンボル変換による内側の情報を外在化するための技術。それが、劇、本、絵画、そういった視覚メディアを統合した意味での「映像」のやくわりだった。
そしてその技自体がメタ的な意味で、美となった。交換の連続の先には、それは間違いなく魔法の技とみえた。記憶法であろうと、絵画であろうと、小説であろうと。
神の業としての自然の力というものは、科学の発展、映像の技術、シンボル交換の技術の発展によって、次第に力をうしなっていく。
いや、だがしかし。神は決してなくならない。いなくならない。消えない。死なない。なぜか「死なない」からだ。いや決して反復ではない。
端的に言うならば、人ができない交換がある。それは「無」と「有」の交換。
イカロスが太陽に恋して向かって焼け焦げて死んだという寓話は、時に、人は神には勝てぬという意味で人々に伝えられる。
ある人はいうかもしれない。それは技術が古いからだと。今の技術をもってすればこの超高密度パワードスーツをきていけば太陽のなかだって生きていくことはできると。だが、それはスーツという外殻の中に、「地球環境」と「宇宙環境」を交換するという等価交換をしているにすぎない。スーツがだめというなら、生身の人間の皮膚を太陽にもとけない特殊合金ですべてつくりかえてみせるという生物学者がいるかもしれない。それもいうまでもなく、身体の内側を地球環境のものと置き換えてるにすぎない。
 
神は、それ自身で、太陽の中に住まうことができる。交換原則を必要としない。それじしんでαでありΩである。
 
人が交換原則の先に、バーチャル空間を生み出したとして、そのなかでいきていこうとおもったとき、人は神になれたと錯覚するだろう。だが、人は「食べねば」生きていけない。バーチャル空間で水を飲もうと、それはあくまで刺激の交換である。味があろうとなんだろうと、無から有は生まれない。
 
映像、すなわちアート(技術)の限界は、すなわち食にある。文学者やアーティストが時に、食べることを嫌うのは、そこに無意識の要因が存在しているのではないか。過剰なダイエットの先にみるのは神の美なのではないか。モデルのほっそりとした華奢な身体に神性をみるか。