Leanな生活について考えるブログ

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内なる父親像=リベラリスト、外への父親像の投影=共同体主義

父親像とは、個人が生きていく際において、何が欠損しているかを伝える存在である。みんなとうまくやっていくにはどうすればよいか。
共同体主義者は自らの外部に、まず実の父に父親像を置く。その延長上に身近共同体の長に父親像をおく。その延長上に、天皇(のような想像上のもの)に父親像をおく。最初から自らの判断をすることを捨て、外部に判断基準をおく。これはだれしもができる「素朴」な行為であり、このやりかたが、今までもっとも用いられてきた。
リベラリストはまず内なる父親像が存在することを想定する。その後に、その父親像を外部に投影するか(たとえば実の父親に)、もしくは父親が信じられない、のんだくれのだめ人間だった場合は、自分の「良心」「理性」というものを仮定して、それを父親像とする。ただ、これは高度なシンボル交換の技術が必要であり、ある一定時間の学習が必要となるものである。それがゆえに共同体主義のように、だれしもが自らの欠損を理解できるかは不確かである。シンボル交換がうまくできない場合、それは単純に、父親像の欠損となり、なにがよきことでなにがわるいことかを判断できなくなるだけとなる。
おそらくそれはリベラリストもわかっていることで、それゆえにエリート主義になるのだろうと思う。官僚の人々に、リベラリズムを浸透させる。そして、共同体主義リベラリストになることも選択できる自由を、法として与える。その結果、学習期間が一定時間とれなかったものにも、素朴な共同体主義を選択することが可能となる。