Leanな生活について考えるブログ

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「面白い」系と「感動」系

「面白い」は古語でいうところの、をかし、で、自分と他人を区別し、客観的に分析している余裕があるのに対し、「感動」は古語でいうところの、あはれ、であって、自分と他人の区別がなくなり心が動く様子をいう。「自意識」がなくなり、世界と自分が一体化するような体験。
 
一頃、セカチューなどの感動系がはやったのは、結局そういった体験を「寂しい」人が求めていたからに違いない。「物語」による「縦の力」(非日常的な力)で「金」による「横の力」(日常的な力)でうめられない、人とのつながり感を満たしてくれるから、人は感動を求めた。
 
一方、芸人などの、「面白い」を求める人たちは、感動系を「さむい」と思う。というか「面白い」こそが一頃の流行であった。自分と他人を区別して、ウケルと面白がる。まるで自分には、「自意識」なんて関係なくて、「他人とのつながり」なんて関係ない、興味ない、というようなスタンス。そういう立場をとるひとからみれば、積極的に「寂しいから他人とつながりたい」と前面にだして「感動」したがる人は、「自意識過剰」なヒーローヒロイン症候群にみえる。
 
だが、「感動系」が「芸人系」のあとに、そして同時に存在していることが重要である。「感動系」ははるか昔に払拭されたものとおもわれた。80年代的狂騒で、「自意識」を気にかけるやつはネクラで寒い人たちとされたはずだった。その後「芸人」がはやり、面白くて、他人を面白がらせるやつがはやる。しかしここにきて、「感動系」が復活をとげた。
 
寂しい人が多いのは、結局昔からなんにもかわっていないのではないか。寂しいのを忘れようとして、世界を面白がってみたものの、やっぱりどっか寂しくて、他人とのつながりを求める。渋谷の女子高生が、他人なんて関係ないと嘯きながら、様々なツールで他人とのつがなりを求めたがるように。
 
いずれ、その寂しさはすべては「セカイ系」の感動に吸収されるのかもしれない。
 
ただ、お手軽な「感動系」は、一時期の寂しさの解消、自意識の問題を弱めはしても、それは僅かな間のことであるということはいうまでもない。
 
参考文献:

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)