Leanな生活について考えるブログ

「LeanStartUp」や「デザイン思考」や「UX」な考え方についていろいろ考えたり、日々の生活で実践したり。

よこ と たて

世の中をまとめるには力が必要である。その力を名づけるとしておおまかに二つにわけるとする。するとそれは「よこのちから」と「たてのちから」とでも言うべきものに分類される。端的に言えば「よこのちから」とは「お金」で結びつくある意味平等な世界である。そして「たてのちから」とは原始よりあった「お金」以外での結びつき方のことで、それはキリスト教的倫理であったり、社会的道徳であったり、自我が自らに律する命令であったり、イデオロギーであったりする。 
 
今の若い人には、物事を深く考える力がない、などとよくいわれるわけなんですけれども、それはそうする必要性がない、というのがよくある答えになってますです。本当にその必要があるのかないのか、ということはおいといて、それは若い人の中に、テーゼとアンチテーゼが同時にアンビギュアスに存在しているということなのです。決してそこからそれがぶつかりあって止揚すること(たてのほうこう)はないわけです。テーゼもアンチテーゼもただの記号と化し、それを交換することすら可能なのです。記号と変化した概念は「キャラクター」となって平面的、横の軸(よこのほうこう)に、交換可能なものとして存在しています。それゆえ、鳥肌実村上隆が同時に同じサブカルチャーの軸の上で存在できるのです。それは半濁音と濁音を同時に存在することができなかった「近代」では決して考えられなかったことでした。
 
政治の季節がすぎたころに訪れた、「日本における創作の不可能性」の忘却のはじまりです。たてのほうこうの思考をしなくとも、よこのほうこうの、ものの等価性交換性、端的にいえば経済の発展による諸外国と並んだという意識が、そういった思考をする必要性をなくしたのでした。このころから大人は子供であってよくなった。西洋的な「私」をもたずとも表面上はよくなった。「ものをつくる」ことは「サブカルチャー」のお金になるものをつくることへと変わった。すべては消費可能なパッケージ化された「物語」たちになった。それは小林よしのりの漫画といパッケージと宮台シンジの本というパッケージが同じ本棚に存在していることを可能にした。
 
うしなわれた「たてのほうこう」は、ダイヘン物として、江戸時代以前の「たてのほうこう」であった、道徳とかそういうものを要求したりした。
 
結局どれが正しいのかはわかりません。それら、異物を互いにぶつかりあわせ、止揚というなの、融合、一方的な吸収、または、ただたんにアンチテーゼを意図的に忘却することによって、仮想的に「美しい」なにかをつくりあげ、自己満足の世界にひたっていた近代政治と、現在のあきらめた、考えない、平面的な世界、どちらが正しいのかはわからないのです。というよりも、本来的にこの二つは「考えていない」ということにかんしては同じなのかもしれません。前者は「考えようとしたけど考えられなかった」、後者は「考えることに意味をみいだせずに考えない」という違いでしかないわけです。そして、また、本当の意味で「考える」ことに意味があるかどうかも、今現在では疑問視されているのかもしれません。
 
しかし多重人格という病気は日本社会のためにあるような言葉だなあ。明治維新、戦争という二度の心理的外傷(PTSD)を持ち、その経験を旧来の日本的なものに混ぜることを結局あきらめ、同時に、別々の人格として存在させている。多重人格の症例とかさなるじゃないですかあ。
 

というようなことを日本・現代・美術とか物語消滅論とかお金に「正しさ」はあるかとかを参考にかんがえた。
 

日本・現代・美術

日本・現代・美術


お金に「正しさ」はあるのか (ちくま新書)

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