Leanな生活について考えるブログ

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子供論メモまたはFromChildrenToChildren.

現代において子供は子供のままでいいというのが暗黙の了解である。それがもっとも最先端の思想であり夜な夜な子供による子供のための宴が繰り広げられている。
だけれども本当にそれでいいのだろうか?子供は子供のままで本当にいいと、子ども自身が本当に信じているのか?「自分探し」を笑って自分を探さないで、レイブし続け、本当に自分を見失わずに生きていけるのか?端的に言うと、自分を憎み、それを投影した他人を「殺さず」にいられるのか?
日本には子供しかいない。というか元からいなかった。それは当たり前の話で元々西洋でいうところの「子供」と「大人」は西洋にしかいない。
西洋において子供が大人になるということは、自我が確立されていない子供時代から、苦しい通過儀礼、イニシエーションを経て、自我を確立し、社会の中に入っていくという一連の過程である。その物語をユングは神話によみとり、全てのこの世に存在する昔話や民話、映画のストーリーに見出した。
日本では明治時代に西洋文化とともに「自我」という発想も輸入された。それ以来その「自我」というアイディアをどう処理するかで日本ではもめにもめた。日本では「自我の確立」の達成こそが明治から戦後までの大きな課題となった。
サブカルチャーとは本来子供のためのものである。大人がそれをたしなめば名目上は「子供っぽい」と嘲笑された。「大人」を探していた明治以降最近までの話である。
今はどうだろう。かつて子供っぽいとされた「漫画」「テレビ漫画」を堂々と「大人」が見る。子供画好むような絵をアートだといってもてはやす。いい大人が夜な夜な夜遊びを繰り返し踊り歌う。
サブカルチャーとは移行対象であるといわれる。子供が大人へと成長する際に必要とする「テディベア」。今現在、多様なサブカルチャーとよばれるテディベアたちはお手軽な「成長物語」として大量生産されている。それらは決して自分自身の成長物語のために必要とされるものではなく、その場しのぎ、その場をたのしむための何かとして消費されていく。
確かに「大人」は存在しない。成長すべき「大人」とはそもそも幻である。それはネオテニーである日本人がもっとも早く気づいたともいえる。それゆえに日本においてこれだけのキャラクター商品が散乱している。(その割りに日本人のストーリーテリングの能力が全く育たないのも同じ理由だ。ストーリーは大人が子供に語るものだ)。
だがかつて日本は拙いながらもそういったあるはずのない大人に憧れ、仮想大人を振る舞い、自分を御する術を学んでいったのではないか。「自分」というよくわからないけれど自分をひどく悩ますもの。自己欺瞞、自尊心、自我の確立、自意識過剰。そういうものにぶつかることでそれぞれが何らかの、「迷わない心」を手に入れてきたような気がする。それが文学であった。則天去私。
日本において「大人」になるということはもはや恥ずかしいとされたのが戦後である。「大人」しい少年少女は「ネクラ」とされ、不良少年たちがカッコイイとされた。風俗はますます子供化していき、キャラクター商品は世の中にあふれ、渋谷は子供の街と化した。「自分探し」は恥ずかしいこととされ、政治の季節をへてからは完全に「自我の確立」という物語は、時代錯誤のものとされた。
しかしどんだけ大人になることを否定しても、子供のなかに、そのよくわからない「自分」という化け物がある限り、子供を悩まし続ける。「自分」とはなにか。「自分」をよくおもってほしい。「自分」をみとめさせたい。じぶんじぶんじぶん。
それらの自分探しを否定してサブカルチャーと戯れ続ける限り子供が子供を殺すことをやめることは無い。
楽園では何をしても自由だ。人を殺すことさえも自由だ。
 
推敲なし根拠なし論理飛躍ありまくり。