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【アート】 笑いと現代芸術。日本人型と西洋人型の楽しみ方。

先日の美術館での「おばちゃんの笑い」について少しだらだらと考えてみたりした。笑いと現代芸術の関係とか。


ところで、青臭いことをいってしまえばほとんどこの世の中にある枠組み、境界線と呼ばれるものは全て壊せるものなわけですよ。物理的にどうのこうのというはなしではなく、精神的な意味で。

椅子が椅子でなくするのにハンマーはいらない、椅子をつかって座る以外の用途、たとえばそれで人を殴るというようなことをすれば椅子は凶器という枠組みになる。

ややこしいのは現代美術の類で、それらの規定条件として「枠を壊す」という枠を持っているから、「「枠を壊す」という枠」を壊そうとする言うメタ的なループにおちいってしまっているのが今の現状で、その状態で出来上がる作品ってのが「商業主義的作品」、枠に基づいた作品。トマトソースの缶だったり、村上隆の絵だったりするわけですよ。

ただそれらの作品が、本当の商品や、本当のアニメ作品などと違うのは「「枠を壊す」という枠」を壊してできたというループが来歴として残っているところです。その思考の経歴があるから芸術として成り立つ。

つまり本質はその来歴なわけだから、「いす」というものを前にして「これは「いす」という枠組みを壊す、という枠組みを壊してできた芸術作品なのです」と主張すれば、なにも加工していない「いす」というものが芸術作品になりうるのだろうと。

まぁそれが「もの派」のひとたちのやったことなのかもしれないんだけれど、よくはしりません。

また、その「来歴」をしらない鑑賞者にとって見れば、ただの「いす」でしかないわけです。座れる椅子なわけです。それが美術差君貧であることを証明できるのはそれが美術館に大事に展示されているということなわけです。

そんな一種類の来歴だけでその「いす」を美術品だと断定してしまってありがたがるということほど、あほなことはありません。その「あほさ加減」が充満しているところに日本の美術館のうそくささがあったりします。権威主義的というか。

じゃあ結局その作品が美術品である「来歴」をどうやって知るかというと、美術館にはいるまえに知識を構築しておかないとわかりようがないわけですよ。だから正直なところをいうと、「教養」のためとかそういう理由で美術館にきても、「わかったふり」を強要されるだけでなんのたのしみものないはずなのです。

西洋人は、ルネサンス以来そういう、知識をもった人間こそを理想の人間とするヒューマニズムの影響下にあるため、知識を構築しているひとが多いらしい。

それに比べて日本人はそんな知識を偏重しだしたのはつい近代のことで、だからどうもうそくさい。その結果大学から教養課程というものがなくなりつつあるわけですが。

で、だらだらとなにをのべてきたかっつうと、日本人が楽しめるべき美術館の方法はやはり「見世物小屋」として「笑う」ことが一番近いきがするんですよね。

だから西洋人型でない楽しみ方をするならば、先日のおばちゃんは大正解だろうと思うし、好ましいなあとおもうわけです。

西洋人型からしてみれば「下品な!この無教養の人間め!」となるのでしょうが。誤解ないようにいうと、そういう西洋人型のたのしみかたも、まぁそれはそれで楽しむ方法としてはありだとおもいます、っつうか俺もそっちのほうがすきなわけですが。

結論としては、わからないときは笑え、ってことですよ。まじ。たのしんだもんがちです。


【補足】

美術館の楽しみ方
?権威主義型(似非西洋風日本型)
?見世物小屋型(純日本型)
?知識構築型(西洋型)

の3種類にわけてみている。?と?はほとんど変わんないけど、?のほうがえらそう。で、?のほうが知識がない。っつうかんじ。