Leanな生活について考えるブログ

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【アート】 メディアアートとソーシャルネットワークサービス

2週間ほど前に、NTTのメディアアート展示会である「ネクスト:メディア・アートの新世代」というものにいってきた。

メディアアートにおいては、コンピューター、つまりは集積回路を使って計算するというところにひとつの特徴がある。

コンピューターが生まれ、しばらくたつ。その技術の進歩のなかで、感覚をいったんデジタルにおきかえることによって、視覚も聴覚も触覚もすべてが一元的に扱うこができるようになった。つまりは全て数字である。数字をアルゴリズムという道具でいじることで、さまざまな変換をすることができるようになったのだ。

さて、今回のメディアアートたちの方法論として、数字をつかうということで一元的に全ての感覚を扱えるようになり、それを利用としてる傾向がみられる。そしてその方法をつかって表現しようとしていることは、普段ないがしろにされている感覚を、わかりやすい感覚に置き換えることによって、体験者に再体験してもらうということなのではないだろうか、と感じた。

視覚を聴覚に、視覚を味覚に、視覚を嗅覚に、視覚を触覚に、聴覚を視覚に・・・。時間の感覚を視覚化し、コンピューターの中の位置の感覚を視覚化する。f(a)=b。その関数fこそが作品の本体であり、作者の思想である。そしてそれ自体は成功しているとおもう。普段感じていることさえ忘れているような感覚を取り戻すことができ、そのたびに驚き新鮮な感覚を味会うことが出来た。

だがどの作者も、そのfを作ることだけで満足しているところがあるのではないだろうか、と素人目ながら思ってしまう。

本来近代芸術がなしてきたことは、「もの自体」をいかに、それそのものとして表現することではなかったのか。たしかに現在のメディアアートを従来の美学と比較するのは、難しいことであるかもしれない。だけれども現状のようなそのfを造ることだけで満足しているならば、これからのネットワークサービスが進歩し、それぞれの環境でデバイスインフラが整備されていくならば、自宅でちょっとした思い付きで今やっているようなメディアアートが再現されることもあるだろう。

たとえば、いまソーシャルネットワークサービスというものがある。サービスのひとつのGREEというサービスの説明から引用させてもらうと「あなたの友達をより深く知ったり、友達に自分の好きな本や音楽を紹介したり、自分の友達と友達を引き合わせたり、友達が自分を別の友達に引き合わせてくれたり、そんな自分の友達との交流サービスです」というものである。このサービスの何がすごいかというと、結局、見えなかった人付き合いという感覚を、視覚化することによって、ある種の快感を作り出しているのである。これだって立派なメディアアートといえないだろうか?

そうなったとき、仮にもアート、とつく今のメディアアートと、ネットワークサービスの違いとはいったいなんになるのか。美術館でしか設備がととのわないようなことをやることが「アート」であることの証明ならば、すぐにそんなものは技術発展においこされ、「アート」たりえなくなる(以前、ハイパーテクノロジーアートとよばれたものがいまでは笑ってしまうぐらい技術的に拙く見れたものではなくなるように)。

もちろんソーシャルネットワーキングサービスにはじまるような、現在のネットワークサービスが、すでにある意味「アート」化しているわけで、そういったものと区別がなくなっていくことで、メディアアートを「アート」と呼ぶことはできない、ということはできない。ただいずれにせよ、少なくとも芸術教育を受けたものとして、技術者が考えるようなサービスと同化していくというのはどうなのか。

私が、メディアアートに期待しているのは、そういった、コンピューターをつかった数字の一元的管理による、感覚の変換をつかって、「世界」それ自体をみせてくれることである。ラカンのいうところの「現実界」哲学的にいうところの「もの自体」を見せてほしい。そういった体験をさせることで、美術館で観客に感動の涙を流させてほしい。

そうでないならば、メディアアートを表現する場としての美術館は、ただの、技術の試行場もしくはゲームセンターとなんら代わりがなくなる。

これからますます、技術者が芸術まがいのことをやれる時代になるし、逆もある。音楽家が画家になることだってできるし、逆もある。全ての情報を数字というもので一元的に管理する。これこそがIT革命の本質的なところであり、特徴であるのはいうまでもないが、そうなっていくからこそ、使う技術ではなく、考える思想で、差別化をはからなければいけなくなるのではないだろうか。