Leanな生活について考えるブログ

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【漫画】 超平面的というブーム、素晴らしいフリクリなリバーズエッジ−凹村戦争

西島大介凹村戦争を読みました。いかにもあれです。ポストモダン動物化しちゃった超平面的平坦な戦場な話でした。もちろん面白かったわけですが。

まあなにしろ帯を東さんが書いてるわけで。そら大塚さんの超現実やらに漫画だってかいてるわけで。完全にその世界の人ですよね。

俺が気になるのは、しかし、ポストモダン動物化超平面的ブームってのはいったいなんなのだろうか、と。文化を批評するなかで、言葉としてつむいだモノそのものが新たな文化として祭り上げられ、そのもとで多くの作品が意図的に生まれていくということが起こっている。

もちろん、今までの漫画の歴史のなかでだって、プロパガンダめいた作品たちはたくさんあった。だけれどもある意味この凹村戦争ほど、特定の思想に影響を受けている漫画ってのもめづらしいのではないかなとか思う。確信犯でやってしかも面白いってのがすごい。

観測者は決して観測するだけではすまなくなる。観測者が観測されるその現象を観測する人が観測されている。なんて複雑系な世の中。それを自覚した上での、こういった作品なのだろーとか。

雰囲気としては、せりふ回しのやる気のなさとか、閉じ込められた村とか、そのへんフリクリとかににてる。あと素晴らしい世界にもにてるかな。もちろんフリクリは、世紀末的アニメエヴァを作った会社だけあって、わりとわかりやすいカタルシスを用意しちゃうあたり、まだ色気があったわけですが、そしてそういう意味では凹村も微妙なカタルシスをちゃんと用意しているあたり色気をすてきれていないのかなとか邪推しちゃいますが。廃墟は最後までみせなくてよかったかなぁとかおもった。廃墟はやっぱり、夢を捨てきれない、少年の復活の場所だったりするとおもうわけで、そういう意味で、スーパーフラットなものではない。(フリクリのラストシーンも廃墟)。あとリバーズエッジの焼けた家とか。

廃墟とは、一見わびさびの境地でスーパーフラットなかんじもするのですが、世紀末戦争で滅びたあとの地球で象徴されるような、げんざいの状況を破壊しつくしたあとに、もう一度ヒーローが新たな秩序を取り戻す、そういう、右上がり的イメージの源だったりもするのです。

そういう意味では素晴らしい世界のあの色気のない最終話は実にスーパーフラットですばらしいと思う。

まあとにかくこれから先、こういうタイプの漫画は少ないながら増えつづけるのではないかとはおもう。それが主流になるかどうか。それがまったりでスーパーフラットなものの見方がこの世の中の本当に主流になっているのか、それとももう一度高度経済成長期よろしくヒーローの物語が復活していくのか。そのゆくすえを見定めたいですな。

まあ世の中なにが正しい分析なのか、100パーセント判断できないっすからねー。