■ 【メモ】 ニュースは物語でしかない
ニュースは「物語」だという、あたりまえのことです。どんだけ人質のことを心配したり、いかったりしたところで、それは物語の中の登場人物を心配したり、おこったりしているのとなんらかわりはない。そして、物語を読み感想をのべることはゆるされても、物語の世界に入り込むことはできない、ということです。
ちがうだろ、ニュースは実際にあったできごとを伝えてくれているんだ、それをみて考えなければいけない。私たちの住む社会のことだから発言しなかればいけない。
という声がきこえてきそうですか、まぁ論理的には間違っていないのではないでしょうか。
ただ心の働きのことをいいたいのです。心の働きではわたしたちはニュースでおこることを「物語」としてしか消費しようがないのです。
なので映画や小説などの「物語」にたいして、批評や感想文があるのと同じように、「ニュース」にたいしてなにか語るのは、とても普通なことだとおもいます。
ニュースも、物語も、「事実」のコピーです。
なにをいってるんだ、物語は、嘘八百じゃないか。という声もきこえてきそうです。物語だって、どこかの作者がきいたりみたりしたなんらかの「事実」からのコピーです。無から有はうまれません。決して。それをさまざまなコピーとからめている、という違いです。
ニュースも間違えなく程度の差があれ、語り部の主観がはいります。そこには事実そのものの姿はありません。
もちろん、ニュースは「客観的」になるように善意でつくられていることは大方認めることが出来ますが。
ニュースをしらなくても、物語をよまなくても、あなたの世界はなにもかわりません。ニュースの90%はあなたの世界にはかかわりがありません。
それでもみるのは、面白さを求めているからです。怒りたいからです。笑いたいからです。同情したいからです。世界のためなんかじゃありません。
ニュースをみるのなんてえらいことじゃありません。世界をしったふりをして、面白がってるのにそれにきづかずに、独善的に語りだすぐらいならみないほうがましです。イラクの3人にたいして直接いやがらせをしたりするぐらいなら。知らない人を犯罪者にしたてあげるぐらいなら。
物語を読むのは楽しいことですが、物語のなかで本当に笑ったり泣いたりしているのは登場人物であり、攻撃していいのは登場人物の敵だけなのだと、思います。