【メモ】 メガネロックサブカル文体論
いまのサブカルには肉体の否定という運動の肉体化という悲しきジレンマがありその表出がファミ通のゲーム帝国に代表され今もなおブログにいたるまでのインターネットテキスト文化の代表的な文体にあらわれているきがします。個人的感想では、はてなダイアリーに顕著だなぁと思ったりしますが。
ようするに、句読点をあまり打たず、読者にわかりやすくしようという配慮を「あえて」なくす文体。
わかりやすくという考え方を否定することで、自分の考えている思想、肉体、感覚文化の否定、批評という思考的なものを、狂人の戯言として表現する。
一種の暗号。
間違いなく今批評や文化を真正面から語れば、世の多くの人々に受け入れられない。文字という文化から後退した「世間の人々」からは狂人として扱われてしまう。
そういった世間の目をかいくぐりながら、それでもなおかつ、技術的制約などで「文字」で語らねばならないテキスト文化は、「無句読点」文体で語るという技をさまざまなジャンルのオフラインの文章から獲得していったのではないでしょうか。
『ラブロマ』は進学校的男子高校生オクテ派の願望 <ARTIFACTさん>
興味深いテキストです。というか引用の引用になるのでなんだかあれなかんじなんですが、ラブロマ、めがねロック、アジカン、くるり岸田、進学校的男子高校生オクテ派という言葉がずがんと自分の心に低音で響きます(笑
何に好意を感じるかといえば、そのエキセントリックな行動であり、そのエキセントリズムこそ、進学校的男子高校生オクテ派がひそかにあこがれている自己像の核心なのである。
自分が知的にエキセントリックであることを個性であると同一視し、その知性的なエキセントリズムを理解してくれる女性を待ち望む、というのは、ひそかな願望なのである。 --−とよ田みのる『ラブロマ』 [紙屋研究所の案内図内]
なぜこのブログを引用させてもらったかというと、そのエキセントリック性こそが、冒頭でのべた「肉体の否定という運動の肉体化」からでてくる自己矛盾の葛藤の末にでてくる、妥協策だとおもうからです。
この世は所詮、幻(肉体性の否定)。といっている自分が幻(メタ的な精神の否定)。という2ちゃんねる的「オマエモナー」ループにとらわれやすい、ストリートに出ない少年少女にとって、それを超越するためのエキセントリック性。これこそが少年少女の憧れのトリックスターとしての「サブカルスター」の条件になるのです。そしてそれを取り入れる。
めがね、というおおよそもっとも、肉体から離れた「文学性」をともなうアクセサリーで、かつてもっとも肉体的ともされたロックに拘泥することで、そのエキセントリック性を保つのです。
そう、キーワードは「あえて」なのです。「あえて」80年代的アイドルパロディを応援する。「あえて」オタクマンガにはまってみる。
その「あえて」こそが90年代真ん中からはじまった「セカイ系」やら「メガネロック」やら「テキスト文化」やら「2ちゃんねる」やらの「サブカル」文化のキーワードですよね。
そして実は「アエテ」といいながら本気で肉体性にまだあこがれているし、同時に肉体の否定も本気で考えているところにサブカル文化の脆弱性があるし、気持ち悪いところでもあるんじゃないでしょうか。だから「セカイ系」にも「あえて」といいながら本気ではまる。大塚さんいわくところの「批評性の欠如」「マーケティング手法とマーケットの願望の奇妙な一致」。本気で涙する純粋性。
まさに進学校的男子高校生オクテ派の願望。
と、いまさら「あえて」当たり前のことをいってみる「テスト」。という逃げ。