Leanな生活について考えるブログ

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【アート】 原子構造まで同じ贋作は真作となりえるか?「アート」の楽しみ方

■ 贋作と真作
 
何かを評価するというのはすごく難しい
真作の絵だとおもわれていたものが贋作だとわかった瞬間価値が暴落した。
いままでは、その絵は美しいとされていたにもかかわらず。 
 
これに対しどう評価するか。
結局みんなものの美しさがわかったようなふりをしているがそんなものは幻想で美しさなんてのは偽善にすぎないと思うか。

■ 人は外見ではなく中身?
 
人間関係で
友達がいて
その友達が死んで
じゃあそのそっくりさんがあらわれたとき
同じようにつきあうか。
 
好きな芸能人がいて
それのそっくりさんがいたとして
同じように好きになるか。
 
むしろ気味がわるいのではないか。
 
たいがい芸能人のそっくりさんというのは
外見的に劣る以上に能力的に劣る場合が多いから
「贋作」にすらなりえないとはおもう。
っつうか「ものまね業界」というのは偽者ではなくそれ以上に深い業界だと僕は思っている。
 
話を戻そう
 
つまり、ぼくがいいたいのは。
ある時間今、ここに存在するものが外見的にはもちろん能力的にまったく同じ、いやそれ以上だったとしても僕たちはそれを「劣ったもの」としてみる。
何が「劣っている」のか
 
それはここにくるまでの「来歴」、つまり
そのもの、ひとにたいする自分のかかわり方
そのものがもつほかの人のかかわり方
いろんな思い、気持ち
そういうものが欠けているからだ。

■ 美の科学的評価
 
そんなもの何が重要なんだ、と思う人もいるかもしれない。
そんなものは感傷論だ、物の本質とはなんらかかわりがない、ましてや評価の項目にいれるなんて
客観的評価とは程遠いと。
 
これだから芸術はだめだ、科学のように客観性がない、原始レベルまで同じものが存在するならば、それはまったく同じものである、と(まぁ現時点ではそこまで巧妙な贋作は存在しないわけですが)。
 
そうではない、感傷論からそういうことをいっているのではない。
「美しい」という評価に「来歴」はものすごく重要な係わり合いを見せる。
 
美しさの基準のひとつに「功利原理から離れた合理性」があると思う。
否定的な意味合いでの「エゴ」のにおいから離れたものがウツクシサの代表的な例だ。
 
贋作とはどうして生み出されるのだろう。
利益を得たいからだろう。本物のように作って購入者を欺き、「騙し」得をする。
 
これは前の原理によればきわめて「美しく」ない行為だ。こういった誰かの思惑とかエゴとかいう汚い汚れみたいなものがこびりついていることを知ってしまった「贋作」は、たとえそれがどんなに一見「ウツクシ」いようにみえてもまったく「美」とは程遠いところにあるといえる。
 
ものすごくあたりまえのことだ。
わざわざいうまでもなく僕たちは「人間関係」においてこうした評価を毎日下している。
 
あの人は一見かっこいいが、今までやってきた行為をみると評価に値しない人だ、とか、すごくぶさいくな人だがいい人だよね、とか。
 
それなのにこと、ものの評価というものになると、かまえてしまう。「客観的」にみなければ、「主観」はとりのぞかねばならない、今そこに見えるものだけを信じよう、となる。ボトムアップ式で評価しようとする。
 
だから見る人によってはピカソは子供の落書きにしか見えないし、デスティルは、「俺にでも5分でかける」絵へと変わる。
だけどじゃあ双子がいて、二人とも顔がそっくりだから、同じ人間だ、といえるだろうか? 
まぁ今の時代そこまで頭が固い人はいないと思うけれども。(逆にやわらかい人が多すぎて困っている部分もある)
ただ今の時代でもやはり「アート」となると、身構えてしまうひとが多いのだ。

俺もえらそうなことがいえるほどアートがわかっているわけではないが、そこらの音楽みたいに「あぁ、あのころよく聞いていた音楽だな、彼女がこの曲好きだった」みたいにもっと思い入れをこめていいものだとおもう。

■ 批評について
 
批評という分野においては、もしそのように主観的になりすぎれば、独善的で、青臭いものとなってしまう。なぜなら他人の視点がぬけているから、他人にとってはどうでもいいものとなってしまうから。
 
そう、批評っていうのは難しい。難しくなければいけないものなのだ。考え抜いていろいろな人の視点からそのものを見て、そのもののあり方を調べつくしてはじめて万人にとって有用な批評になりうる。
 
主観を入れないことが客観になるのではない。
主観×∞=客観になりうる。
もちろん無限なんてのは無理で、その人が、その評価をしたことを聞かせたい相手(読者やリスナー)の数だけ、というのが現実的な数字なんだろうけど。
 
あたりまえだけど僕たちには時間がない。そんな他人のことなんて考えている暇なんてないから。
だからこそそのプロである「評論家」というものがいるとおもうのですよ。それで金をもらっていると思うのですよ。
彼らは、そういう行為で金をもらっている以上、自分の基準を明確にしたい。あやふやな基準ならば、いつ、自分の仕事がほされるかわからないから。だから、人はどういったときに「美」をかんじるのか、ということを考え抜く。多くの人の視点にたち、多くの価値観をかんがえる。 

■ 批評の限界
 
でも、そんな評論家だって、少し力をぬけば、美をみぬくことができない。真作とおもわれていたものも、贋作とわかった瞬間美ではなくなる。それほど流動的なものだ。どんなに客観的なデータも主観的なおもいこみで全てなぎたおされうる。それを誤りとしていいのか?
だからなんでも「作品」と呼ばれるものは、その枠にこだわっていてはだめだと思う。もっといえば、同じ作品でも、はらがへってるときに見る作品と、楽しいときに見る作品では、もはや別物といってもいいのではないか。はらがへってるときにみる絵が美しいこともあるだろう。
 
作品という固定の枠すらも取り壊して、その見ている状況すらも含めて楽しむ。これは、状況の無差別性ゆえに批評できる対象とはなかなかなりえないにしても、ぼくたちはそんなことはきにしなくていいはずだ。
 
評価しようと身構えず、普段の「状況」とは違う「状況」を楽しむという行為が今の広い意味での現代芸術をたのしむコツなのではないか。
と、僕は思っている。